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2014年2月7日エルメレンス (一)

前回お話したオランダ人医師ボードウィンと緒方洪庵の次男惟準(これもり)が創設した「浪華仮病院」大阪大学医学部の先祖)に、ボードウィンの後任として赴任したのが、C・J・エルメレンスです。
彼は1842年オランダ生まれ。ヨーロッパでは医学教育のメッカ(あこがれの地)ドイツのベルリン大学を、首席で卒業した秀才です。生まれつき好奇心が旺盛、旅行が大好きとあって、ぜひ研究室に残るよう勧められたのを断って、東洋の黄金の国ジパングとはどんな所だろうとなんでも見てやろう精神を発揮して、先輩ボードウィンの誘いにのって明治3年(1870)大阪へやってきました。28才のときです。

エルメレンス

それから7年間教授を勤め、浪華仮病院が大阪府立医学校と改称され、日本を代表する医学教育の場に発展させるまで尽力します。その博学ぶりは大変なもので、眼科が専門のボードウィンとは異なって、多方面にわたりました。彼の講義内容は『生理新論』『原病学』『薬物学』『外科総論』『内科総論』『外科・内科各論』等十数冊にまとめられて刊行され、医学教育の重要なテキストとして日本各地で用いられています。
学問だけではありません。エルメレンスの気さくで明朗な性格も、人気の高い原因でした。とにかく周りにとけこむのが早いのです。風俗習慣のちがいなど平気の平左、気おくれすることなく来日した翌日からあやしげなカタコトの日本語で話しかけ、西洋人のもっとも苦手とするミソ汁をがぶ飲みし、タクアンをボリボリかじってみせました。
ワサビをつけたサシミをうまいうまいとたいらげ、和服をゾロリと着て日本式のあいさつをします。座敷の宴会にも喜んで出かけ、たいていの西洋人がしかめ面をする盃(さかずき)のやりとりもヘイチャラ、おまけに酔うと母国オランダの民謡を大声で歌いながら座敷中を踊りまわり、拍手と爆笑の渦をまきおこします。
当時の西洋人は文明先進国というプライドから、すぐにお国自慢をし、母国と日本を比較して社会の後進性を批判、また日本人もおそれ謹んでお説を拝聴する風潮にありました。ところがエルメレンスは、患者に対しても
「ニッポン ヨイクニ、ワタシダイスキ」
と話しかけ、親切丁寧に診察し、しかも腕は抜群ですから、誰もが尊敬します。(続く)

エルメレンス (二)

大阪府立医学校(のちの大阪大学医学部)教授C・J・エルメレンスは、気さくで明朗な人がらと大の日本びいき、しかも診療は親切で腕は抜群ときますから、巷(ちまた)にはエルメレンスファンがあふれていました。
鴻池善右衛門や住友吉左衛門らの富豪から、実川延若、中村宗十郎ら有名な歌舞伎俳優まで熱烈な心酔者で、健康でどこも悪いところもないのに彼の診察を受け、歓談して楽しんだといわれます。またエルメレンスは清潔な人格者でした。シーボルトやピンカートンはじめ、来日した西洋人たちはほとんど日本の女性をいっとき妻にして、帰国するときにたくさんの艶聞を残しています。ところが彼には全くそんな浮いた話はありません。

エルメレンス

「なにかとご不便でしょう。妻帯したらいかがですか」
と周りが勧めますと、
「トンデモナイ、オンナノヒトヲナカセルノハ イチバンイケナイコトデス」
と、あわてて手を振りました。
明治11年(1878)任期の切れたエルメレンスは母国に帰り、オランダのハーグ市民病院の院長に就任します。ところが翌年の同12年フランスを旅行中、急病のためあっという間に亡くなります。時にまだ37才の早世でした。不幸な知らせを受けた大阪の人たちは心から悲しみ、遺徳をしのんで顕彰碑を建てることになり、募金活動をはじめます。知人や弟子たち、あるいは治療を受けた元患者たちが喜んで協力し、たった3ヶ月で軽く目標を突破、千円以上が集まりました。明治14年(1881)中之島(現・北区中之島1丁目)に大きな碑が建ちます。
(正面)FOR THE MEMORY OF DR,C・J・ERMERINS
(側面)阪谷朗盧撰の頌徳文
(銘)歐海万里 魂魄茫々 徳則靡渇 澱水与長
オランダ領事や川口居留地のバイヤーまで除幕式に参加、花火数百発が打ち上げられ、十数名の楽人が演奏する盛大なものでした。なおこのとき祭壇に掲げられた彼の肖像画は、複製されて1枚35銭でとぶように売れたそうです。また江戸堀(西区)の猪飼薬店からエルメレンス先生処方『ビットル散(健胃剤)』が売りだされ、これも好評でした。碑は昭和11年(1936)阪大医学部に移っています。(終わり)