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2014年2月5日織田 作之助 (一)

解体工事中の中座から出火して、法善寺横丁が被災しました。ここは大阪の伝統的情緒のシンボルですから、とても悲しく残念でたまりません。
法善寺横丁といえば、誰もが名作『夫婦善哉』を書いた織田作之助を思い出すでしょう。敗戦後の大阪で井原西鶴の再来かといわれる活躍をしながら、花火のようにあっけなく消えていったあの破滅型の作家です。大阪の人は今でも彼を「オダサク」と呼んで、懐かしんでいます。
作之助は大正二年(一九一三)南区生玉前町に生まれました。父は鮮魚商織田鶴吉、母はたかゑ、姉三人妹一人がいます。
鶴吉は「魚鶴」という店を経営し、「先祖は織田信長や」と真顔でいうほどの、誇り高き男でした。ところが同六年父は商いに失敗し店を手放し、一家は東区東平野町七丁目の通称「がたろ横丁」という路地裏の長屋にかくれます。

読売新聞より
(2002/10/9付)

「入口に日の丸湯という銭湯があって、親父はその前に板を並べ、朝早く仕入れてきた魚を置いてたたき売りをしていた。時どきやけくそのような大声をはりあげる姿が、恥ずかしくてたまらなかった」
後にこう思い出を語っている作之助は、誰に似たのか小学校の頃から成績抜群、友だちもなく独りぼっちでしたが自尊心は人一倍、ろくに勉強もしないのに府立高津中学校に合格して、町内をあっといわせました。
三年のとき国語科教員の鷲野義俊の影響を受け、文学に興味をもちますが他の教科の成績は悪く、旧制中学独特のきびしい精神主義教育に反発し、遅刻や早退をくり返し、わざと奇妙な言動をとって人目をひきます。当時の中学生の大半は良家のお坊ちゃんばかり、貧しい家庭に育った劣等感も怠学の原因の一つです。
「作ぼんは無理して高津に入ったよて、気がふれたらしいで」
近所のこんな噂を耳にした作之助は、目をむいて怒り、突然猛勉強をはじめ、昭和六年(一九三一)よほどの秀才でもめったに入れぬ第三高等学校を受験、見事に合格して胸をはってあたりをにらみつけました。
この前の年に母たかゑが病死、三高に入学した翌年父鶴吉が死亡していますから、作之助の世話は学資いっさいを含めて長姉のタツがやくことになります。(続く)

織田 作之助 (二)

昭和6年(1931)天下の秀才の群がる第三高等学校に入学した織田作之助の面倒は、両親が死亡したため長姉のタツがみることになります。
「作ぼんはわてらとはちがう。ほんまに織田信長の血をひいてはる」
と、タツはひねくれ者の弟をかばい続けました。
彼女は竹中国治朗という商人に嫁いでいましたが、乏しい財布から5銭10銭と始末しては溜め、京都の下宿に入った弟に送金します。国治朗も経済的に苦しく、そこまで弟に尽くす義理はないと舌打ちして、
「あんな奴、あまり構うな。銭なかったら学校やめてさっさと働けばええ」
といい、夫婦げんかのタネになりました。
ところが姉の苦労も知らぬ顔の作之助は、文学に熱中します。詩人志望の同級生白崎礼三と社会見学と称して遊び回り、山本修二教授にアイルランド戯曲を学ぶや文芸部の雑誌に「岸田国士論」を発表し、ほめられていい気になります。

読売新聞より
(2002/10/9付)

さらに運の悪いことに胸を患い、学期考査中に喀血して落第すると、病気療養を口実に登校しなくなり、仲間と同人雑誌「海風」を創刊して1銭にもならぬ「モダンランプ」を発表、校友会雑誌に一幕物戯曲「落ちる」を掲載してもらい、これらを姉のタツに送って、
「小説家として世に出るのも近い。学費だけでなく、文学面の助力もお願いする」
とあつかましいおねだりを重ねます。
「下宿代かて20数円は要りまんね。水屋のひきだしにヘソクリかくしましたら、主人がまた盗人しとるんかと貼紙したことがおます。みんな主人の働いたお金やさかい、もうつろうて、つろうて…。三高から月謝のさいそくがきますと、泣く泣く帯や指輪を質屋にもっていきました」
タツは後にこんなことを書いています。
学校に行かなくなった作之助は、同9年、カフェで働いていた宮田一枝と知り合い、押しかけて同居します。あちこちの新聞社や雑誌から注文がジャンジャン来る作家になるつもりでしたが、現実はそうはいかない。おまけに一枝は夜働く女性です。一枝に対する異学な嫉妬心に苦しみはじめます。屈折した自尊心と病的な嫉妬心の交錯したジレンマが、織田文学の特色の一つだといわれますが、それはここから始まったのです。(続く)

織田 作之助 (三)

学業を放棄してカフェで働く宮田一枝と同居した第三高等学校学生織田作之助は、昭和10年、11年と進級試験に落第し、規則によって退学処分を受けます。 生活は一枝が支えましたが学費は長姉の竹中タツにおんぶしたきり、そのタツが学費のことで夫の国治郎に激しく殴られ、便所に隠れてシクシク泣いていたと次姉から聞かされたのも、ショックでした。
「作ぼんはわてらとちがう。きっと偉くなるで」
と、ひたすら卒業を待ちわびたタツに、とうてい退学になったとはいえず、あきれた一枝にも逃げられ、作之助は住吉の小さなアパートにひとりで入り、おまけに血痰まで出て心身ともどん底の生活となります。
このままでいけば昭和の西鶴とまでいわれた作家オダサクは、誕生しなかったでしょう。ところが同13年、彼は1冊の本にめぐ あいます。スタンダールの名作『赤と黒』です。

法善寺横丁にある水かけ不動

これが運命を変えることになります。主人公の貧しい青年ジュリアン・ソレルの境遇や生き方に感動した作之助は、自分も今までの生活を率直に書いてみようとの気になったのです。
同13年11月、まとめた自伝小説『雨』を、文芸雑誌『海風』に発表します。幼年期、父鶴吉と暮らした生活困窮者の集まる『がたろ横丁』から始まるこの作品を、作家武田麟太郎(本紙1997年6月号参照)が激賞、一部から注目されます。
「真面目に生きよう。ぜったい作家になる」
こう誓った作之助は、別れた一枝を訪れ、正式に結婚して所帯をもとうと懇願します。
「ほんまにきちんと暮らすんやね」
一枝に念を押された作之助は、翌14年結婚すると生活の糧を得るため『日本工業新聞社』に入社、新聞記者として給料をもらいながら小説に本格的にとりくみ、『海風』に掲載した『俗臭』が芥川賞候補になります。これがきっかけであこがれていた文芸春秋社の雑誌『文学界』に『放浪』を発表、いずれも退廃的な生活を清算しようとする若者らしい気力にあふれ、好評でした。
こうして同15年、あの名作『夫婦善哉』を世に送るのです。梅新の化粧問屋の若旦那柳吉は、妻子がありながら店も家族も捨て、一回りも年下の芸者と駆落ちするこの作品は、作之助の名前を天下に広めます。(続く)

織田 作之助 (四)

昭和15年(1940)作之助は、出世作『夫婦善哉』を発表し、文壇に華々しく登場します。
梅新の化粧問屋の若旦那柳吉は、妻子も財産も捨て、一回りも年下の芸者蝶子と駆落ちします。
ところがぐうたらなぼんぼんですから、しっかり者の蝶子に、
「おばはん、たよりにしてまっせ」
と甘えてばかり。やむなく蝶子はいろいろな商いに手を出し、孤軍奮闘する物語です。あんなに好きで一緒になりながらけんかばかり、すぐに別れるといっては別れられぬ夫婦の機微を、下町の風情と人情を背景に見事に描いています。
この作品のモデルは、作之助の次姉山市千代と夫の虎次(とらじ)夫婦で、筋の大半は実話どおり、あれこれ商売をやって失敗し、最後は天王寺区の下寺町でカフェを開くのも、二人とも浄瑠璃に熱をあげるのも、全部姉夫婦の実生活をなぞっています。
「あんさんのこと作ぼんが書いてまっせ」
千代にこういわれた虎次は、赤鉛筆をにぎって、
「ようもほんまのこと書きよったな」
と、本のあちこちを塗りつぶしたといわれます。

『夫婦善哉』に登場する
法善寺横丁にあるぜんざい屋

小説の終わりに柳吉と蝶子は法善寺横丁のぜんざい屋に入り、柳吉は蝶子に知ったかぶりでこういいます。
「ここのぜんざいな。なんで二杯にわけてるか知らんやろ。こら昔、なんとかいう浄瑠璃の師匠が開いた店でな。一杯山盛りするより、わけたほうがぎょうさん入ってるように見えるいうて、工夫したんや」
蝶子はこう答えます。
「へえー、ひとりより夫婦(めおと)のほうがええということでっしゃろ」
どこか哀愁漂う幕切れが、題名の『夫婦善哉』のおこりです。
『夫婦善哉』は創元社から、作之助の初めての単行本として刊行されます。
「姉ちゃん、おかげさんでボクの本出ました」
表紙におたやん(お多福のこと)と水掛不動の提灯をあしらった『夫婦善哉』を片手に、さんざん泣かせた長姉竹中タツを訪ねた彼は、遠慮する姉を無理に道頓堀につれだし、とびきり上等のショールを買ってプレゼントします。こんなショールさわったこともないと喜ぶ姉に、すしとまんじゅうも渡しました。(続く)

織田 作之助 (五)

昭和15年(1940)刊行の作之助の『夫婦善哉』はヒットしますが、東京の文壇の大御所連中からは、
「思想がない。悪達者だが軽薄すぎる」「西鶴の模倣だ。これでは長続きしない」
と、こきおろされます。新人のくせに妙な反骨精神を振り回し、偽悪ぶる態度が偉い方たちの癇(かん)にさわったのでしょう。
なにをぬかすかと反発した作之助は、『二十歳』『青春の逆説』『わが町』『立志伝』『勧善懲悪』『驟雨』『木の都』と物すごいスピードで書きまくります。
しかし戦争が厳しくなり、『青春の逆説』は風俗紊乱(びんらん)で発禁処分、他の作品も内容不適切として掲載不許可を命じられ、せっかくの才能の芽生えを国家権力につみとられてしまいます。やむなく『西鶴新論』や『五代友厚』といった評論・伝記の分野に転じた矢先、同19年愛妻一枝が子宮ガンで死亡します。31歳の若さでした。

『夫婦善哉』に登場する法善寺横丁にあるぜんざい屋

 

作之助は泣いた。涙がかれはてるまで泣き伏した彼は呆然(ぼうぜん)自失し、食欲を失い、餓鬼のように痩せ細りながら本気で遺書を書きます。ところが幸いなことに戦争は案外早く終わりました。
「作ぼんははよからこの戦争はあかん。姉ちゃん、もう二、三年とはもたんで。大阪にいたら死ぬさかい、どこか田舎へ逃げとき。こないいうてました」
長姉竹中タツの言葉ですが、もっと早く白旗をあげたのです。
焼け野原でボケーッとしていた作之助を力づけたのが、やはり大阪出身の作家宇野浩二です。
「お前、なにしとる。小説が書けるんや。好きなだけ書ける。奥さんの供養になるぞ」
我にかえった作之助は、猛烈な勢いで『世相』『競馬』等を書き始めます。大阪日日新聞の『夜光虫』、京都日日新聞の『それでも私は行く』などの連載小説は大好評、ラジオドラマ、映画シナリオもてがけて多彩な才能を見せます。
かと思うと、フランスの実存主義哲学者J・P・サルトルをいち早く評価し、『可能性の文学』と題した質の高い評論を発表、アプレゲールと呼ばれた戦後の若い世代の絶大なる人気を得ました。太宰治に坂口安吾、それに作之助を加えて世間は、「戦後派の旗手」と呼びます。(続く)

織田 作之助 (六)

敗戦直後の混乱の中で、戦後文学の旗手といわれた作之助の華々しい活躍に、文壇の大御所志賀直哉は、
「きたならしい作品だ。二流じゃ」
と顔をしかめます。この話を聞いた彼は、少年時代からの上流階級への反発心が爆発し、居直って自ら二流文士だと称して『二流文学論』を超一流雑誌『改造』に発表、直哉はじめ老大家連中をからかい、若者たちの拍手をあびます。
しかし疲労から生活は荒れ、三高時代に苦しめられた肺結核も再発し、肉体も精神も無惨に崩れていきました。
昭和21年(1946)8月、読売新聞に『土曜婦人』を連載する頃は、仕事が多すぎて寝る時間がなく、執筆のために覚醒剤ヒロポンを乱用するようになります。
「挿絵の小磯良平さんには間にあわないので、電話であらすじを説明して書いてもらいました。オダサクさんは締切時間まで大声でわめきちらし、のたうち回っていました」
これは読売の編集委員の思い出話の一部です。

道頓堀界隈

この年12月、『土曜婦人』の舞台が東京に移るため、作之助は上京しますが大喀血し、翌22年(1947)1月10日、34歳で永眠しました。臨終に際し、
「十日戎の日に死ねるとは運がええ」
と喜んだといわれます。大阪を愛した作之助ならではの言葉です。
オダサクの特色は子供のような好奇心と、大阪人特有の初物食い、それに冗舌だったとこれも大阪出身の作家で友人の藤沢桓夫が語っています。
「身近な人の話や、面白い本を読んだらすぐ書きよる。感受性と摂取力は誰も及ばんやろ。オダサクに小説のネタ話したらあかん、とられてしまうでと私ら文学仲間はいつもいうてました」
桓夫がこうふり返ると、作之助のいきつけの本屋「淀屋」の主人は、
「日に2、3回は来やはりました。片端から猛スピードで立ち読みしやはる。わたいと目が合うと、悪いと思ったんか最後に一番安い本買うて出ていきはりました」
と回想する。
作之助の墓は楞厳寺(りょうごんじ・天王寺区城南町)にあり、
「ロマンを発見したと一語を残し絶命した」
と桓夫が記しています。                               (終わり)