わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月6日林 歌子 (一)

戦前、売買春産業がもっとも盛んだったのは、大阪だといわれます。女性の体がまるで商品のように品定めされ、売買されるとは全くひどい話です。そんな時代にあって、遊郭(ゆうかく)から逃げてきた娘さんを助けたことから、売買春禁止、遊郭廃止を法律で定めることこそ女性解放運動の原点だと考え、正面から立ち向かっていったのが林歌子です。
彼女は元治1年(1864)越前(福井)の大野に生まれました。父の林長蔵は大野藩の徒士(かち)で、その長女です。徒士というのは殿さまが馬やかごで行列を組んで出かけるとき、先頭を歩いて先払いを勤める身分の低い武士のことです。
それで経済的には恵まれませんでしたが学問好きで、若いころ長崎に遊学を志して果たせなかったことを一生後悔し、自分の夢をたくそうと幼い歌子に儒学(じゅがく)を教え、
「これからは女であっても勉学せねばならぬぞ」
と、頭をなでていいました。

林 歌子氏

歌子が3つのとき生母が病没、継母が来ますが大変やさしい人で歌子をかわいがり、裁縫や料理などこまごました家事を熱心にしこみます。すると父は、
「うたは賢い子だ。そんなことはやらせるな。将来は学者にして、お国のために役立たせたい」
ととめましたから、それを聞いた同僚たちは、
「親バカもいいとこだ。長蔵のやつ、なに寝言いうとる」
と大笑いしました。
明治10年(1877)福井に女子師範学校ができると父は歌子を受験させ、歌子は見事合格します。女子師範は大変難しい学校でしたから、元・家老の娘たちも不合格でしたので、周りはあっけにとられます。両親が苦労して学費を作るのを知っていた歌子は猛勉強し、師範の成績もトップグループ。あるとき学校視察に来た大隈重信(総理大臣や早稲田大学総長を務めた学者政治家。外相時代テロにあい、爆弾で片足を失う)に、生徒代表として研究発表するよう命じられ「日本外史」頼山陽著の日本歴史の裏面史。難しいが面白いことは無類)を講義します。びっくりした重信は、
「いやぁ、感心した。キミはきっと偉くなる。もっと勉強しなさい。これは本代だ」
と、金一円也の大金を包んで差し出しました。(続く)

林 歌子 (二)

明治13年(1880)、福井女子師範学校を卒業した16歳の林歌子は、大野小学校の教員になりますが、4年後、一生に一度の、やはり小学校教員の阪本大円と恋愛関係になります。父の長蔵は大円が林家に養子に来る条件をつけて結婚を許しますが、初めは承知した阪本家も、大円は阪本家の相続人だ、嫁に来なければ認められないともめだします。
そのうちに、古い因習(いんしゅう)に縛られるのは嫌だ、駆落ちしても一緒になろうといってくれた大円が、いつのまにか親のいいなりになって、嫁に来ないのなら別れても仕方ないと背を向けます。当時は家父長権が絶対でした。憲法24条にわざわざ「婚姻は両性の合意にのみ基いて成立」と記されているのは、このような過去があってのことです。このときの痛手が、男性を中心とした古いモラル「家」の制度に対する反発となり、女性の権利を守りたいとの歌子の生きかたの、原動力になっています。

矢島 楫子(左)と歌子氏

同18年傷心の歌子は故郷を捨て、東京へ出てキリスト教に救いを求め「神田教会」に通い、牧師ウィリアムズと出会います。彼の語る西洋の文化と人権尊重の思想に、目のうろこのはがれる思いがした歌子は入信し、立ち直る一歩をふみだします。またウィリアムズの世話で立教女学校教員になりますが、ここで矢島楫子(かじこ)を知り、大きな影響を受けました。
楫子は21歳も年上で、肥後(熊本)の大庄屋家に生まれます。姉久子は徳富蘇峰(思想家)・盧花(小説家)の母親、次姉せつは横井小楠(思想家、明治維新後暗殺される)の妻という賢女3姉妹の妹です。富豪林七郎と結婚しますが夫は酒好きの道楽者、とりわけ女性関係がだらしなく、何度もけんかしたのち3児を置いて離婚。東京へ出て牧師タムリンの洗礼を受けキリスト教徒になり「東京婦人矯風(きょうふう)会」を起こし、一夫一婦制を主張、女性の地位向上に尽力しました。夫婦が一夫一婦であるのはあたり前ですが、
「お妾(めかけ)さんを持つのは男の甲斐性や」
とほめられるほどの、男勝手な時代だったのです。
また歌子は神田教会で、小橋勝之助・実之助兄弟とも親しくなります。兄弟は教会男子部のリーダーで、
「恵まれない子どもたちの福祉に役立つ施設を作りたい」
といつも熱っぽく語っており、歌子はその夢の実現のために協力したいとの思いがつります。  (続く)

林 歌子 (三)

明治25年(1892)東京神田教会の小橋勝之助・実之助兄弟と林歌子は、兄弟の故郷赤穂(兵庫県)の矢野村で、貧しくて親からほおりだされた子どもたちの救済施設「博愛社」を設立します。兄弟や歌子の考えは、
「孤児救済事業は恩恵ではない。自給自足が基本だ。働いて生きる苦しみと喜びを自覚させることが、真の自立の第一歩だ」
というなかなか進んだものでした。それで3人は幼い子どもたちと田畑で泥まみれになって働きますが、当時の社会情勢は無関心どころか、物好きな連中やな、なんか魂胆(こんたん)があるんやろと嘲るありさま。裕福な小橋家の親族からも嫌われ、この運動はすぐに経済的に破綻(はたん)し、おまけに病弱だった勝之助は死亡します。
やむなく実之助と歌子は、どうしてもいきばのない数人の子どもをつれて大阪へ移り、キリスト教徒で慈善家の阿波松之助の援助を受け、昼は田畑を耕作し、夜は歌子は夜学校の教員、実之助は理解のありそうな企業や教会を訪れ、必死になって理想を語り協力を求めました。

歌子の胸像 
博愛社(淀川区)

明治32年(1899)念願かなって2人は神津村(現・淀川区十三元今里)に土地を求め、小さな施設「博愛社」を再建、大阪で初めての孤児救済運動を展開します。もちろん公的機関の援助などはありません。それからの2人の苦労はとうてい筆では表現できないほどですが、血と涙の奮闘を重ねてようやく礎(いしずえ)のできた同37年、歌子は博愛社運動に共鳴したプール女学校教員山本カツエに懇願して実之助と結婚してもらい、博愛社の経営を夫婦にまかせて去っていきます。もちろん前号で紹介した尊敬する矢島楫子(かじこ)を支え、矯風(きょうふう)会活動を広げて、女性の地位向上に取組むためです。
なおこのカツエが、のちに「大阪福祉活動のお母さん」と呼ばれる小橋カツエです。彼女はすぐ落ち込んで悲観する夫・実之助を励まし、苦しい生活にめげず次々に新しい企画を実行し、現代的な福祉理念を持つ博愛社に育てあげた功労者です。とくに終戦後、焼け野原になった大阪市中をさまよう戦災孤児たちを救った功績はまことに偉大で、いつか別の機会にぜひお話したい女性です。
明治38年(1905)、歌子は楫子と渡米し「万国矯風会大会」に参加してびっくりしました。日本社会の後進性、とくに女性に対する差別・偏見をいやというほど痛感したのです。  (続く)

林 歌子 (四)

 

女性の地位と権利の向上をめざす「万国矯風(きょうふう)会大会」に参加するため渡米した林歌子は、男性中心の日本の社会構造を変革しなければ女性の人権はふみにじられるばかりだと考え、積極的にいろいろなところで講演し、日本の実情を語り、
「女性の社会進出を妨げる男性優位社会を打破する拠点を設けたい」
と訴えます。各国女性団体やキリスト教団体などもカンパし、募金1万5千円を集めることに成功、明治40年(1907)帰国してこれを資金に大阪市北区中之島に「大阪婦人ホーム」を設立しました。ホームの趣意書に、「婦人ノタメノ職業ヲ紹介シ、保護救済ヲ目的トス」と記されています。

女性がなぜ男性の庇護下にあり、理不尽な父親や乱暴な夫のふるまいを甘受(かんじゅ)せねばならないのか、それは女性に収入がないからだ…歌子の思想はここから出発します。「女、三界に家なし」「娘時代は父に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子に従え」といった江戸時代の古くさい「婦道」がまだ残っている世の中です。
①女性の自立には経済力が必要だ。まずホームでは手に職をつけさせよう。
②横暴な男たちから逃げてきた女たちの避難所にしよう。ホームは現代のかけこみ寺だ。
歌子たちはとりあえずこの2点をホームの努力目標にします。
この時代、女性に仕事をあっせんする公的な職業安定所は、ほとんどありませんでした。たいていは営利が目的の、俗称「口入れ屋」が世話をしますが、雇主と結託(けったく)して不当な仲介料をとり、できるだけ低賃金に押さえるのが腕がよいともてはやされました。ですから大阪婦人ホームは手仕事を教えただけでなく、無料の職業紹介所の機能も発揮します。
明治41年(1908)そんな歌子の人生観を変える大事件がもちあがりました。松島遊郭(ゆうかく。当時西区内)から、しづという接客婦が助けてと泣きながら逃げこんできたのです。まっ青になって語る彼女の身の上話に、歌子はもらい泣きします。
しづは幼いころ両親がはやり病であいついで亡くなり、叔父に引き取られました。ところがこの叔父がひどい男で、自分のくいぶちぐらいかせいでこいと子守奉公に出し、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると松島遊郭に売りとばしてしまったのです。  (続く)

林 歌子 (五)

明治41年(1908)歌子が経営する女性の自立と権利向上をめざす施設「大阪婦人ホーム」に、松島遊郭からしづという接客婦が助けてと逃げこんできました。
しづは幼い頃、両親と死別し叔父に引き取られますが、この叔父がひどい男で物心つかぬうちから子守奉公に出され、女中・店員・工員と働かされ、年頃になると遊郭に1300円で売りとばされたのです。お金は全部叔父が着服、これを前借りだと称し、しづが利息をつけて5年間で返済する証文が入っていました。このお金は大変な高額です。
しづは毎日めまぐるしく変わる客を相手に働きますが、やがて性病をうつされ、客がとれなくなります。仕方なく同僚の炊事・洗濯・店の掃除などにこき使われますが、遊郭の主人から治療どころかこのごくつぶしめと殴る蹴るの暴力をふるわれ、おまけに病気もひどくなり、とうとうたまらなくなって、風のたよりに聞いた婦人ホームに救いを求めた…というのです。
はじめて遊郭の実情を知った歌子は、涙をぬぐってこう決心します。

「真の女性解放は遊郭を廃し、地獄の底であえいでいる女たちを助けだすことから始めるべきだ」
「女性の体を商品のように値ぶみする売買春産業ほど、人間の尊厳をふみにじるものはない」
翌日から大阪婦人ホームには、遊郭に雇われた屈強な男たちが押しかけ、
「女をかくしたやろ、出さんとひどいめにあうぞ」
と脅迫します。しかし歌子は必死になってかくまい、医師の診察を受けさせ、しづが小康をとりもどすと近所の町工場で働いてもらいます。
「働いて生きる苦しみと喜びを自覚する。これが自立の第一歩だ」
というのが歌子の信念でした。
その頃の町工場は、1日に10時間労働、休みは月3回、休憩は昼休み30分だけ、給料は日給80銭という厳しい条件が一般的でした。ところがしづは嬉々(きき)として喜び、
「先生、まるで極楽にいるようです。お金ためて、きっとホームに恩返しします」
といそいそと働きに出ます。その姿をみて歌子は、「売買春禁止運動」を一生の仕事にしようとかたく神に誓いました。
翌42年7月、のちに「キタの大火」と呼ばれる大火事で、「曽根崎新地遊郭」が類焼します。歌子はチャンスだと立ち上がりました。  (続く)

林 歌子 (六)

明治42年(1909)、のちに「キタの大火」と呼ばれる大火事で、曽根崎新地遊郭が類焼します。売買春禁止運動の先頭に立っていた歌子は、社会運動家山室軍平・島田三郎らと遊郭再建反対運動を起こし、2万人に近い署名も集め、ついに大阪府は「曽根崎新地貸座敷免許廃止」通達を出します。
続いて同45年、今度は「ミナミの大火」で難波新地遊郭が焼失、歌子たちはただちに廃止運動を強力に進め、これまた成功します。いずれも偶然火災が生じたせいですが、歌子たちがもりあげた世論の高まりがあっての成果です。
いっぽう業者や事業主、それに一部の政治家やマスコミは危機感をつのらせ、遊郭必要のキャンペーンを展開します。彼らの主張を要約すると、①遊郭がないと若い娘さんが男達に襲われる。遊郭は女性の純潔の防波堤だ。②女性が手になんの職がなくても、親・兄弟を助けられるのは、遊郭があるからだ。遊郭は親孝行の源だ。③遊郭は江戸時代からの社交場だ。あればこそ商いが円滑にはこぶ。廃止すると大阪の経済地盤が沈下して、大不況になる。といったまことに腹立たしい屁理屈でした。

署名活動中の歌子

結局、遊郭賛成論者に押しきられた大阪府は、大正5年(1916)告示107号で、「天王寺村の飛田(とびた)に、市内のすべての遊郭を集める」と発表。2万坪の広大な敷地に、日本一の大規模な歓楽地「飛田遊郭」の建設にふみきったのです。
歌子はキリスト教徒で社会運動家・宮川経輝(大阪YMCAの功労者)を委員長に頼み、有志とともに「飛田遊郭設置反対同盟」を結成、建設阻止(そし)に死力を尽くします。小・中学校保護者会(現PTA)に教育上重大な支障ありと働きかけ、署名・講演活動を起こし、母親たちと大阪府庁に陳情のためのデモ行進を実行します。おそらく大阪では初めての「女だけのデモ」だったと思います。
また宙返り飛行で世界各地を巡業していたアメリカの飛行家A・スミスが、おりよく大阪に来ていたので頼みますと、気難し屋のくせに大賛成、
「わがはいに任せなさい」
と無料で大量の建設反対ビラを空中からまいてくれ、これも話題になりました。さらに歌子は女子師範在学中にほめられた大隈重信(当時首相)を訪ね、彼も協力を約束してくれます。(続く)

林 歌子 (七)

大正6年(1917)歌子らの建設反対運動は完敗し、夜も煌々(こうこう)と光り輝くまるで不夜城のような日本一の大遊郭「飛田遊郭」が竣工します。歌子たちは巨大な建築物を回りながら、マイクで「ハンタイ、絶対ハンターイ」と、むなしく叫びつづけるばかりでした。
市民の支持も高かったのになぜ失敗に終わったのでしょうか。答えは簡単です。遊郭設置を推進した府議会・市議会の議員の中に、かなりの遊郭関連業者がまじっていたからです。それに府・市議会には、1人の女性議員もおりません。いや、いないどころか女性には立候補はおろか、投票権すらなかったのです。
戦い敗れた歌子は、私たちの代表を送りこまねばどうにもならないと考え、「婦人参政権獲得運動」に方針をきりかえます。
「なぜ女は政治からしめだされているのか」「どうして投票権すら奪われているのか」

林 歌子氏

と歌子たちは訴えますが、軍国主義に染められていく世間から、白い眼でみられるようになります。
それでも彼女はくじけません。「日本婦人平和協会」の発起人となり、ガントレット・恒(つね、旧姓山田。国際的な平和活動家)とロンドンの軍縮会議に出席、また「日本矯風会会頭」に就任、あるいは中国に渡り北京に孤児救済施設を開くなど、海外にも活動範囲を広げながら、女性の政治参加を認めるよう訴え続けます。けれども軍国日本は中国侵入政策を強行し、軍事衝突から戦争に拡大する流れのなかで、歌子たちの運動は徹底的に弾圧されてしまいました。
昭和20年(1945)本拠の「大阪婦人ホーム」は強制疎開の名目で破壊され、高齢も重なって気力の衰えた歌子は、茨木市のホーム分館に移り、静かに祈りの生活に入ります。
翌21年3月24日、81歳で他界。病床で占領軍が「公娼廃止に関する覚書き」を出したと聞いた歌子は、
「戦争に負けてよかったね」
と、ぽつりとつぶやいたといわれます。その8ヶ月後に「女性参政権」が成立し、初の女性国会議員が誕生するのです。
いまセックス産業は花ざかり。売買春はとっくに法律で禁止されたはずなのに、援助交際とかなんとかサイトとか、あやしげな商いがはやっています。あの世で歌子さんはどう思っておられるでしょう。もうひとつ、若い娘さんたちにお願いがあります「センキョはジャマクサー、投票ヤーメタ」なんていわないでくださいね。(終わり)