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2014年2月6日早川 徳次 (一)

早川徳次は早川電機(シャープ)の創業者ですが、その生涯を知れば、誰もが感動することでしょう。
彼は明治26年(1892)東京の日本橋に生まれました。実母が病弱で育てられないので里子に出され、2つで早川家の養子になります。間もなく後添えの養母が来ますが、ひどく徳次を嫌い冷たくされ、衣服はむろん、食事もろくに与えられない幼少時代を過ごし、学校なんて行かんでええ、ゼニがかかると小学校2年で退学させられました。
9歳で錺屋(かざりや・金属の装飾品を作る職人)の家に丁稚(でっち)として住みこみます。ガリガリに痩せた徳次を見て情け深い親方がうどんをとってやったところ、こんな太い白みみずは気持ちが悪いとしりごみしたとの話が残っています。

早川 徳次氏

10年間徳次は身を粉にして働き、親方もかわいがって秘伝の技術を授け、大正1年(1912)独立させて小さな店をもたせます。
「お前、学校にいっとらん。親類もない。おまけに金までない。その貧乏人が他人様に負けないためには、 どこの店も作ってない物を工夫する。これしかないぞ」
親方にさとされ知恵をしぼったあげく、紳士用ベルトのバックルを考案します。穴どめバックルは腹回りの変化で合わなくなる、早川バックルなら自由自在です。続いて同4年、回転式で芯を出し入れする「シャープペンシル」を発明、特許をとって大当たりします。
シャープペンシルは1883年、アメリカでエバー・シャープの名で販売されたのが、世界で初めてです。徳次は芯を折れないように太くし、軸を回して出し入れする方式を開発、万年ペン(当時はインキ壺にペン先をつけて字を書く)に対抗したのですが、これがヒットし、ベンチャー企業として頭角(とうかく)を現します。
しかし人生、いつ不幸がくるかわかりません。新しい工場も建て従業員も増えた大正12年(1923)9月、関東大震災が襲いかかります。工場も自宅も倒壊し全焼、財産どころか妻と2人の愛児を失い、自分も全身に大火傷を負いました。
幸せの薄かった少年時代をひきずる徳次は、誰よりも家族を大切にしています。家族の笑顔を見るのが生き甲斐でした。お父さんもいくでと叫んで、知人からお前が死んでなんになると、ほっぺたをひっぱたかれたほど、再起不能のありさまとなりました。  (続く)

早川 徳次 (二)

大正12年(1923)関東大震災のため、工場・家屋はむろん妻と2人の子供まで失った町工場の主人早川徳次は、自分も大火傷を負い、いったんは生きる望みをなくしましたがようやく立直り、妻子を供養するのが務めだと思い直し、翌13年大阪に移り、早川金属工業所(シャープ株式会社の前身)を創設します。そして丁稚(でっち)小僧だったとき
「お前は学歴も知りあいも金もない。あるのはアイデアだけや。人のやらんもん作らなあかんぞ」
と親方からいわれた言葉を思いだし、アメリカからきたラジオをとりよせ、分解して研究に入ります。
もちろんたった1人でです。

翌14年、鉱石ラジオの製造に成功、この年はJOBKがラジオ放送を始めましたのでたちまち注目を集め、とぶように売れます。国産第1号のラジオはこれです。白黒テレビ、カラーテレビ、電卓等も、多くの電気器具メーカーがあるなかで、国産第1号はすべて徳次のシャープです。彼がどんなにパイオニア精神の持ち主だったか、よくわかりますね。
徳次がテレビの試作にとりくんだのは、昭和6年(1931)からです。世界で最初にテレビの映像実験に成功したのは、1925年、イギリスのJ・ベヤードですが、日本ではこの翌年の12月、浜松高等工業学校(現・静岡大学)教授高柳健次郎が、直径15㎝のブラウン管いっぱいに、カタカナの「イ」を浮かびあがらせたのが最初です。ただし方法・技術はベヤードとは全く異なります。
徳次はさっそく健次郎の部下の技術者を招き、費用を惜しまず本格的な実用化を試みたのです。BKも応援、会社内に研究施設を作り、画面映像実験に成功しますが戦争がきびしくなり、やむなく中断されます。あと一歩だったのに…と残念がった徳次は、戦後いちはやく他社にさきがけて試作を再開、昭和26年(1951)国産テレビ第1号を市場に出しました。このときの価格は1台29万円、公務員の初任給が9千円だった時代の話です。なお松下幸之助のナショナルは、1年おくれて同27年に発売しています。
シャープはアメリカのRCA会社と業務提携し、価格をさげて同29年頃から1台12万円で量産体制に入ります。徳次はもっと値段を下げたい、そのためには売れなければならぬと宣伝・広告に知恵をしぼりますが、もと大相撲力士の力道山が、前代未聞のプロレス興行を始めようとするのに目をつけます。(続く)

早川 徳次 (三)

 

「なんとかして国産テレビの普及化をはかろう」
と考えた早川電機(シャープ株式会社)の創業者早川徳次は、もと大相撲力士力道山が日本で初めて興行する
プロレスとタイアップします。
昭和29年(1954)アメリカから帰国した力道山は、世界タッグチャンピオンシャープ兄弟を相手に、柔道の木村政彦7段と組んで、世界選手権大会を興行します。徳次はこれをテレビで中継し、宣伝効果をねらって街頭にタダで見られるテレビを設置しました。なにしろ敗戦で頭のあがらぬアメリカの大男兄弟を、小柄な力道山がたたきのめすのですから痛快無比。交通整理のための警官が出動するほどの大人気、テレビは3種の神器の一つになり(あとは冷蔵庫・洗濯機)、爆発的に売れます。徳次が大企業の経営者になったのはこれからです。

しかし彼はなに ごとにも独占を嫌いました。他社が類似の製品をだしたと部下が訴えても、人に真似される製品が作れたとは嬉しいといいきかせ、ナショナルやサンヨーとの競合をむしろ喜びます。昭和38年には太陽電池、同39年には卓上電子計算機を市場に出しますが、いずれも国内ではシャープがもっとも早いです。
幼いころ徳次は継母にいじめられ、戸外にほおりだされました。寒風に薄着1枚、こごえてお母ちゃん、カンニンして…と泣いていたところ、盲目の女性がとおりかかり、継母にとりなしてくれたことがあります。
ようやく小さい町工場の主人になったのに、関東大震災で家屋・工場どころか最愛の妻と2人の子供を失った悲惨な体験も持っています。そのせいか偉くなってからは、生活苦にあえぐ人たちや、身体に障害のある方たちの雇用には積極的で、昭和25年には身障者だけの合資会社「早川特選金属工場」を設立しています。現在ならともかく、まだ敗戦のどん底生活が続いていた時代の話ですよ。
同35年、カラーテレビ21型を開発した徳次は、10年後社長職から退き、会長になりました。シャープは家電メーカーからエレクトロニクス企業へ飛躍しますが、会社経営にはほとんど口を出さず、中小企業経営者たちの相談相手を務めます。不況のときほど相談者は多く、世に「早川詣(もう)で」と呼ばれます。昭和55年(1980)6月、87歳没。
早川福祉会館(東住吉区)は、彼の寄金をもとに設立された自立支援センターです。(終わり)