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2014年2月6日松と竹の兄弟 (一)

白井松次郎・大谷竹次郎の双生児兄弟は、日本の映画・演劇界の先頭にたった「松竹」の創業者ですが、その人生は汗と涙にまみれた凄絶(せいぜつ)なものでした。
兄弟は明治10年(1877)、京都に生まれました。父の大谷栄吉は花相撲(本場所以外の地方の臨時興行)の勧進元「花の峰」 の奉公人で、幼い兄弟をつれて各地を転々、兄弟は6つのころからざぶと を配りたばこぼんを出し、下足番もこなし、夜は土俵の上でむしろをかぶって寝る毎日でした。もちろん父も働きましたが興行は水もの、正直者の栄吉は海千山千の興行主たちによくだまされ、いつも貧乏、兄弟は空腹のあまり客がゴミ箱に捨てた弁当の残りを食べて、飢えをしのぐありさまです。小学校に通うなど夢のまた夢で、学歴めいたものはありません。

白井 松次郎(左)
大谷 竹次郎(右)

同18年、母のしもは「祇園座」の売店に勤め口をみつけ、兄弟も菓子や氷水を売ってお手伝いをします。ふたごですから大変仲が良く、姿・かっこうからしゃべりかたまでそっくり、客たちは松と竹の区別がつかない。これが人気を集め、なかにはチップをはずむ客もいます。
「な、大きゅうなったら、母ちゃんに楽させてやろな」
松と竹はいつもこういって1銭の金もむだにせず、こつこつとためました。
祇園座には中村福助や中村雁(がん)治郎ら、大物スターも出演します。兄弟はいつの間にか興行のコツを覚え、同28年、かねて目をつけていた実川正若ら無名の若手役者10名ほどを誘い、近江や伊勢に巡業します。出しものは歌舞伎の名場面をつないだダイジェスト版で、客の入りはまあまあでしたが、松阪で悪徳興行主にひっかかり、役者の衣裳まではぎとられてしまいます。
兄弟は地べたに額をこすりつけ泣きながらあやまりますが、腹を立てた役者たちに殴られ蹴られ一座は解散、山のような借金を背負いました。
当時の興行界は前近代的で、なわばりをもつ土地の親分に多額の祝儀を贈らねば興行できず、また役者たちも芝居がはねたあと小道具係りまで舞台に集まって大あぐらをかき、飲酒・賭博にふける習慣がありました。出演料などドンブリ勘定もいいところ、偉い人気役者からつかみどりしますから、下っぱはタダ同然、これでは不平不満がおきるのは当然だ、なんとかしなければと兄弟は考えます。(続く)

松と竹の兄弟 (二)

双子の兄弟・松次郎と竹次郎の兄である大谷松次郎は、明治30年(1897「夷谷(えびすや)座」という劇場の売店の娘白井ヤエにひとめぼれします。20才のときです。ヤエの親が、お前が養子にくるのなら夫婦にしてもよいといいますと、二つ返事で入りむこになり、白井松次郎と姓を改めました。そのとき、いつも影のように寄りそっていた仲良し弟の竹次郎に
「これからは別の人生を歩こうやないか。もう兄弟やない。お前とライバルになって仕事したい」
と、きっぱりいいわたします。同じ日に生まれても双子はふしぎなもの、いつも兄が先を歩き、弟はあとからついてきたのです。松次郎は今こそ、弟が独立できるチャンスだと考えたのでした。

白井 松次郎

兄がいなくなってしばらく涙ぐんでいた竹次郎は奮起します。倒産して借金のカタになっていた「阪井座」の経営権を譲り受け「歌舞伎座」という大きな堂々たる名前に変えて「実川延二郎一座」を招き、一世一代の大勝負に出ます。もし失敗したら首をつったぐらいではすまなかったでしょう。初めて兄の援助なしの興行でしたが大入り満員、延二郎の熱演もありますが歌舞伎座という名称が客を集めたとみられます。
いっぽう松次郎は夷谷座をはじめ、各劇場の売店のチェーン化を試み、大量仕入れの安売りで利益をあげますが、弟の成功に負けじ魂に火がつきました。同34年、火災で焼失していた「常磐(ときわ)座」の興行権を買収、新京極に移して「明治座」と改称。借金して近代的設備をふんだんに取入れ、高級劇場と銘打って旗あげします。わずかでも料金を低くとの常識を破って、高いが大名気分にひたれるように工夫したのです。これが一般の人たちにも受けました。誰でも一日富豪になれるからです。
兄弟の成功の原因は、経営の合理化にあります。興行権を親分たちからとりもどし、ドンブリ勘定を改め、役者の出演料を腹芸ですませていた習慣を破り、明確な契約書をとりかわしています。収支決算を透明にしますから、コヤの下働きの人たちも文句のつけようがありませんでした。
兄弟の華々しい活躍に世間は注目します。新聞も「松と竹の興行合戦」「さあ松と竹、いずれが勝つか」とはやしたてます。これが興行界に君臨する「松竹」のおこりです。 (続く)

松と竹の兄弟 (三)

興行界の革新運動を起こした双子の兄弟白井松次郎と大谷竹次郎は、明治35年(1902)再び力を合わせて「松竹合資会社」を設立します。
4年後京都から大阪に進出し、道頓堀の中座・朝日座・御霊(ごりょう)神社境内の文楽座等の経営権を買取り、さらに同41年東京の新富座・本郷座も入手します。そして大阪は兄の松次郎が、東京は弟の竹次郎が責任をもって経営すると分担し、さあ、どちらが成功するか競争やと、西と東に別れます。
姿・形からしゃべりかたまでそっくりだった松と竹の兄弟に、このころから目立った違いがでてきます。松次郎は伝統芸能を大切にしますが、竹次郎は新しい芸能開発に力を入れ「松竹女優養成所」「帝国劇場女優養成所」を作り、珍しかった女性のスター育成に努めました。

大谷 竹次郎

大正4年(1915)、その竹次郎に不幸が襲います。目に入れても痛くなかった一粒種の、当時中学生だった栄次郎が、中禅寺湖で突風にあい、ボートもろとも転覆し、水死したのです。竹次郎の悲嘆ぶりは誰もがまともに見られないほど、事業も放棄して、生きた屍(しかばね)のようなありさまになりました。
そんな竹次郎を立直らせたのが、松次郎の養子白井信太郎です。彼は海外生活で映画の存在を知り、養父に進言して同9年「松竹キネマ部」を創設、この新事業の社長に失意の叔父竹次郎を説得して就任させます。
よみがえった竹次郎は、蒲田に9千坪の土地を購入し、小山内薫(おさないかおる=劇作家)を招き「俳優養成所」をたちあげます。またパラマウント映画で天才カメラマンとうたわれたヘンリー小谷をひきぬき、日本で初めての本格的映画(当時の名称は活動大写真)「島の女」を制作させます。この作品は成功しませんでしたが、主演の栗島すみ子の愛くるしいこと、次々に出演してアイドルとなり、映画は松竹が一番だと誰もが思うほどの地盤を築きます。
といっても、興行組織としての松竹は、栄枯盛衰をくり返します。とりわけ同12年、漏電事故のため「東京新歌舞伎座」が全焼、再建にとりかかって半ば以上できあがったときに、あの関東大震災に見舞われました。
努力が水泡に帰し、瓦礫(がれき)の山となった新歌舞伎座の前で、竹次郎は茫然(ぼうぜん)と立ちすくみ、言葉を失います。(続く)

松と竹の兄弟 (四)

大正12年(1923)9月、関東大震災のため「東京新歌舞伎座」が廃墟と化しました。興行界の革命児といわれた双子の兄弟白井松次郎・大谷竹次郎は茫然自失(ぼうぜんじしつ)、さすがの松竹もここに命運尽きたかと思われます。
しかし、ややあって竹次郎は、
「もういっぺんやる。東京に皆さんが住んでもらうために、ぜったいに歌舞伎座は要る。娯楽こそ
人間が生きるエネルギーだ」
と叫びました。東京はもう住めない、何度も大地震が起こる、地方に行きなさい…と政治家から学者までこう語った時代の話です。

白井 松次郎(左)
大谷 竹次郎(右)

竹次郎は山ほど借金し、大林組に頼んで震災に強い鉄筋コンクリートの大劇場を建設します。こけら落としには歌右衛門、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門らトップスターが出演し、心配した客席は超満員、自分らの住む家もないのに観劇に来てくれたのです。竹次郎は大阪からかけつけた兄松次郎と抱きあって、人目もかまわず大声で泣きに泣きました。 松次郎も着々と事業を進めます「大阪歌舞伎座」「松竹座」「文楽座」等を建設・運営し、敏腕を発揮します。この松次郎に挑戦したのが、阪急の小林一三でした。一三は若いころ小説家を志した文学青年で、電鉄や百貨店を経営する事業家になっても忘れられず、宝塚少女歌劇を結成して自ら脚本や演出を担当したロマンチックな男です。
昭和7年(1932)一三は東京の有楽町に「東京宝塚劇場」を創設、これを省略して「東宝」と称する映画会社を作り、打倒松竹をめざして映画制作に入ります。負けるものかと松竹も対抗し、この競合が日本の映画界の発展に大きく貢献するのです。
戦後、空襲で壊滅状態になった東京・大阪で、兄弟はいち早く立ち上がります。あの時代の映画がどれほど生きる勇気を与えたか、ご存知の方は多いでしょう。昭和26年(1951)兄松次郎は74才で死去、弟竹次郎はこの年日本で初めての総天然色映画(当時のことば「カルメン故郷に帰る」を、元・子役の高峰秀子を起用して制作しています。モノクロ映画が終わるのはこれからです。年老いても会長として松竹の先頭に立ち、同42年(1967)90才の天寿を全うしました。
「な、大きゅうなったら、母ちゃんに楽させような」
貧乏のどん底で幼い兄弟はこう誓いました。母の笑顔が何よりも楽しいと語った兄弟は、親孝行の手本だといわれます。(終わり)