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2014年2月17日下村彦右衛門(一)

下村彦右衛門は、百貨店大丸を創業した人物です。なにわの商人魂を象徴したような魅力のある男です。
彼は貞享4年(1687)京都の伏見にあった古手屋「大文字屋」の主人、下村三郎兵衛の3男に生まれました。古手屋というのは古着屋(今ならリサイクルショップ)のことです。当時一般の人たちは着物を新調するお金はないので、たいていは古着を買ってすませます。つぎはぎだらけの着物も売られていたそうです。
生家は繁盛していましたが、父のあとを継いだ兄の長右衛門が怠け者、色町に入りび りになって金銭を浪費しますから、いつしか大文字屋も軒が傾きだします。

下村彦右衛門

大文字屋は京の宮川町に質屋と貸衣裳屋をかねた支店を持っており、こちらの経営は彦右衛門にまかされていました。この支店も色町に近く、遊興費に困った客が着ているものを質に入れたり、遊女たちが今日はおけいこやさかいと晴れ着を借りにきたりしますから、けっこうはやっています。また彼は兄とはちがって働きもの、質流れの着物を大きなふろしきに包み、背負って亀のようなかっこうで遠くまで売りにいき、毎日汗みどろになって働きました。
彦右衛門は人なみはずれて背が低く、5尺(1m50cm)はなかったといわれます。そのわりにとびきり頭がでっかく、耳たぶが大きくだらりとたれさがっていたから、ついたあだながカボチャです。
「大文字屋のカボチャとせ 背は低いがイイ男」
と、子どもにまではやされます。
彼はこのあだなが気に入り、麻の裃(かみしも=江戸時代の武士の礼装)をつけ、手に白扇を持って座り、にこやかに笑っている人形を作り、店先にまねき猫のかわりに置きました。これが評判になり、眺めに来る人も増えます。現在の「福助人形」、あれはこれがルーツだという説もあるぐらいです(異説多し)。
享保2年(1717)倒産した兄長右衛門の大文字屋に代わって、京町8丁目に新しい大文字屋を建て、呉服の卸(おろし)商を始めます。商標はもちろん「大」にしますが、大文字屋だからではありません。
「大は一と人を組み合わせた文字や。わいは天下一の商人になってみせるぞ」
と叫んだ心意気をマークにしたものです。(続く)

下村彦右衛門(二)

享保2年(1717)京都の京町8丁目に呉服の卸(おろし)店「大文字屋」を創業した下村彦右衛門は、
「大という字は一と人を組み合わせた漢字や。わいは天下一の商人になってみせる」
と、商標を大にきめ、これを○(まる)でかこんだ符号を看板だけでなく、のれんや包み紙、荷札にまで、やたらとべたべたはりつけました。
「これ、なんと読むんや?マルダイやろ、いや、ダイマルや」
と世間は首をひねっているうちに、いつしかダイマル読みが定着します。

大丸引札(チラシ)

享保11年(1726)彦右衛門は、いつも水運を利用して商品を集めていた大坂に、拠点を移そうと計画します。
「商いは西の品物を東に流通させ、北と南の製品を交易(こうえき=交換すること)して、利益をあげるのがコツだ。そのためには交通の便利な大坂が最適の市場である」
これが彦右衛門の商い哲学です。しかし彼は一か八か(賭け勝負に出ること)の商法は大嫌いでした。まず大坂の心斎橋筋(現・中央区)にあった呉服商松屋清兵衛店が、経営不振で閉めていたのを譲り受け、同業者の知人八文字屋甚右衛門に共同出資話をもちかけます。これなら失敗しても半分の損失ですむからです。さらに実弟の久右衛門を支配人にし、松屋の旧店名も生かして「下村松屋店」と名を改め開店しました。間口1間、奥行2間というささやかな店でしたが、これが現在の大丸百貨店の始まりです。
彦右衛門の商法の基本は、「半季計算掛売り廃止、正札付現金払い」の2点でした。当時の呉服業界はどこも節季払い(盆と暮れの年2回に代金を清算すること)で、当然資金を寝かすことになりますから、利息含みで高値になります。また商品に値札がついていませんから、客と番頭・手代の押したり引いたりのかけひきにあけくれます。上物になると半日がかりの問答が続いて、やっと契約が成立するという非能率的な毎日でした。
ところが彦右衛門は墨くろぐろと数字を書いた値札をつけ、誰が値切っても一文もまけません。そのかわり品質は良く他店よりはるかに安値ですから、計算高いなにわっ子の心を巧みにつかみました。嘘八百を並べて大げさに吹きまくり、粗悪な品物を高価に売りつけるのが商人の腕だと信じられた時代に、彦右衛門はすがすがしい風穴をあけたのです。
(続く)

下村彦右衛門(三)

享保15年(1730)大坂心斎橋筋(現・中央区)で呉服の卸(おろし)店「大丸」を経営していた下村彦右衛門は、共同出資者の八文字屋甚右衛門と、世にもふしぎな別れかたをしています。大坂の店と、店がためたすべての現金を分け、クジを引いて勝ったほうが店、負けたほうが現金をもらって別れようというのです。
「彦右衛門の運強かりけむ勝ちクジを、八甚は負けクジを引く。八甚後悔せしも是非(ぜひ)なく大金持ちて去り、次第(しだい)に衰へたりとぞ」
と、古書に記されています。開店して5年目のこと、彦右衛門43才でついに独立したのです。もしクジに負けていれば、現在の百貨店大丸はなかったと思います。
彦右衛門は世間の噂を大事にしました。

心斎橋 大丸

「ええか、噂はこわいぞ。風評ひとつで店は繁盛したり没落したりする」
「噂はどうして生まれるかわかるか。店先きの応待がすべてや。口のききかた、頭のさげかたひとつが噂になる」
と、番頭、手代から丁稚(でっち)にいたるまでこう教えた彦右衛門は、
「たとえ子どもでもお金持って買いにきたら、殿さまと同じあつかいせえ。どんな安物でも買いなすったら、王さま気分にして帰しなはれ」
と、客あしらいの大切さを従業員から家族の骨の髄(ずい)まで、たたきこみました。
そんな彼の耳に、名古屋の徳川宗紀が紀州の徳川吉宗と将軍争いをして負け、やけになって遊びまわり、ぜいたくの仕放題になっているとの噂が入ります。
「お上が華美に走れば、民も奢侈(しゃし=身分をこえた暮らし)に流れるはずだ」
と名古屋に支店をだし、とびきり高価な呉服をあつかい、これが大成功をおさめます。
元文3年(1738)彦右衛門は江戸に進出します。江戸っ子は宵ごしの金は持たぬが自慢のタネで、キリギリス型の浪費傾向にあった時代です。日本橋伝馬町に店を構えてわずか4年、大坂本店よりも大きくなり、彦右衛門は京・大坂・名古屋・江戸の四都を制圧するトップクラスの大呉服商になりました。
こうして萌黄(もえぎ)色の地に、○の中に黒で大の字を染めぬいたいやに目立つふろしきで包んだ商品を荷車に山と積み、同じデザインのはっぴを着た車夫たちが、威勢のいい掛声で走り回る光景が、各地で見られます。(続く)

下村彦右衛門(四)

享保15年(1730)心斎橋筋に呉服の卸(おろし)店「大丸」を創業した下村彦右衛門は、宣伝に大変な才能を発揮します。
○の中に大を入れた商標をつけた番傘(当時の雨傘。竹の骨に油紙をはったもの)を店の前に置き、にわか雨で困っている通行人にさあどうぞと貸して喜ばれます。神社や寺院の手洗い鉢に、この商標入りの手ぬぐいをやたらとさげ、燈籠にも彫りこみます。傑作なのは、歌舞伎の舞台で人気役者がパッと広げた傘にダイマル印が描かれていたことで、これには誰もがびっくりしました。
大売りだしはどこでもやっていましたが、これに福引きや景品をつけたのは、大丸が最初です。会場には歌舞伎座のようにダイマル提灯をつりさげ、福袋も山ほど積んで景気をあおりたてます特賞には振袖ひとそろいを入れて、世間をあっといわせました。
こうして大丸を京都・大坂・名古屋・江戸と四都を代表する呉服店に育てあげた彦右衛門は、50才をすぎると突然商いの第一線から退き、頭を丸め、茶の湯や謡曲を楽しみながら、せっせと家訓を作り始めます。
江戸時代の豪商は、いずれも子孫がかならず守るように商いの憲法「家訓」を作っていますが、とりわけ彦右衛門のは面白い。その中からいくつかわかりやすく直して紹介しておきます。

下村彦右衛門の書

(1)10才までに読み書き手習いを終え、そろばんに入ること。
  15才になるとかならず丁稚(でっち)奉公せよ。他人のきびしい躾(しつけ)
  を受けること。
  20才をすぎたら大丸の支店を順番に回り、大丸商法を会得せよ。
(2)一人のいうことを信じるな。多くの人の話を聴き、いいとこだけをとり入れよ。
(3)ぜったいに客をだましてはならぬ。正直律義、誠意をもって取り引きすべし。
(4)衣服・食事のおごりもいけないが、心の ごり、これが一番いけない。
(5)商いに誇りをもて。商人は武士や農民に劣るものではない。
(6)賭博・遊蕩、かたく禁ずる。火の用心を怠るな。

延享4年(1747)1月、親しくしていた法性寺の住職大道和尚が訪ねてきて、
「ほう、お前さん。死期が近いぞ」
といいました。家族たちは怒りましたが、彼は
「よういうてくだされた」
と深々と頭を下げます。同年4月、
「わしの棺桶はあるな」
と確かめてから、息を引きとります。60才の往生でした。(終わり)