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2014年2月17日田中 絹代 (一)

日本映画の歴史のなかで、女優ベストスリーをあげよといわれれば、大半の人が田中絹代を思いだすことでしょう。彼女は少女時代、大阪で大変苦労しながら世に出たすばらしい女性です。
絹代は明治43年(1910)山口県の下関に生まれました。父は田中久米吉、母はヤス、豊かな家庭でしたが父が早世して生活は苦しくなります。母のヤスがお人好しですぐ他人の甘言にのせられる。親類筋に悪い奴がいて親切ごかしに近づいてきて、世間知らずの母子にもうけ 話があるとだまし、信用して印をついたのが運のつき、家屋から土地までまきあげられてしまいました。しかたなく母子は夜逃げして大阪へきてひっそりと暮らします。

田中 絹代

絹代は幼いころから筑前琵琶(ちくぜんびわ)を習っていました。これは明治20年代に薩摩(さつま)琵琶と三味線を合わせて生まれた楽器で、ふつうの琵琶より小型、女性の演奏者が多く、哀愁をたたえた音色は評判になります。彼女はよほど才能があったのでしょう。お師匠さんから10才で免許皆伝を受けていますから、大したものです。
母ヤスは生活のため、娘の才能を生かす方法はないかとあちこち探し回ったあげく、ようやく楽天地にあった小劇場「月宮殿」で少女琵琶興行をしていた巴家寅子(ともえやとらこ)一座に入れてもらいます。
「楽天地」とは明治45年(1912)いわゆるミナミの大火で歓楽街千日前が焼け野原になったあと、南海電車社長 大塚惟明が興行主 山川吉太郎(本連載171~174回参照)に頼んで、大正2年(1913)オープンした総合レジャーランドです。1階は洋画大劇場、2階には二つの小劇場があり、東館「朝陽殿」では落語や漫談、浪曲が、西館「月宮殿」では大正時代のクレイジーキャッツといわれる巴家寅子一座の根城でした。
ほかにメリーゴーランドやローラースケート、パチンコにミニ水族館もありますが、人気No.1はなんといっても寅子一座の少女琵琶です。とりわけ淡路航路の汽船から投身した女性(実話)をモデルにドラマ化した「須磨の仇浪(あだなみ)」は大当たり、女性客ばかりではない。作家長谷川幸延は
「子どものころ祖母のお供で3度いったが、3度とも人の頭で舞台が見えなかった」
と語っているぐらいです。絹代はたちまちこの一座のスターになりました。声もいいし演奏も上手。なんといってもとびきりかわいらしかったのです。(続く)

田中 絹代 (二)

大正13年(1924)大阪の楽天地(現・中央区千日前にあった遊園地)にある小劇場「月宮殿」に出演していた少女琵琶劇巴屋寅子(ともえやとらこ)一座のスター田中絹代は、お休みの日にたまたま見た映画(当時の名称は活動大写真。もちろん白黒で無声)の主演女優栗島すみ子の演技にうっとりします。
すみ子は詩人与謝野鉄幹の親友で作家の栗島狭衣(さごろも)の娘で、大正10年松竹蒲田(かまた=東京都の南部にあった撮影所)に入り「船頭小唄」のヒロインを演じて大ヒット、美人女優第1号といわれた女性です。中山晋平(しんぺい)が作曲した「俺は河原の枯れすすき…」との主題歌は、今でも中高年の方の愛唱歌の一つですね。

田中 絹代

当時14才だった絹代は、京都の松竹撮影所にすみ子が来るという噂を耳にし、直接お会いして弟子にしてもらおうと出掛けます。ところが警戒が厳重で近寄れません。さすがの少女琵琶スターの絹代も、
「紹介状がないとだめ!」
と、ぴしゃりとはねつけられてしまいます。
うろうろしていると、キミ、なにしてると声をかけてくれたのが、野村芳亭監督です。彼は名前だけは知っており、へえー、寅子とこの絹代がキミか…とジロジロ顔を眺めながら、同情してこういってくれました。
「そんなら俺が使ってやろ。ただし端役(はやく)やぞ。それが勤まらなかったら、活動大写真はあきらめなさい。」
こうして彼女が出演した最初の映画が「元禄女」ですが、端役も端役、お姫様にゾロゾロついて歩く腰元のひとりでした。
もちろん誰の目にもとまらなかったのですが、たまたまニューフェイスを探していた青年監督清水宏があれっと首をかしげ、絹代を呼びだし、
「キミの笑顔がいい。ちょっと笑ってごらん。あかんあかん、口に手をあてたらあかん。大きな目をしてニコッと笑うんや。恥ずかしそうに笑うんや」
と注文をつけ、あごがだるくなるほど笑わせ、じゃあサヨナラ…と去っていきました。
変な人…と思っていた絹代は、半年後、ふたたび宏に呼びだされます。いきなり「村の牧場」という映画の主役に頼まれたのです。さわやかな青春映画ですが、宏の思い入れは格別でした。映画の世界など右も左もわからぬ絹代に文句ばかりつけ、いやになるほど笑わせ、すぐNG(とり直し)をだしました。(続く)

田中 絹代 (三)

端役も端役、お姫さまにゾロゾロついて歩く腰元のひとりだった田中絹代の笑顔がいいと評価し、いきなり「村の牧場」というさわやかな青春映画の主役にしたのが、松竹の青年監督清水宏です。
宏はオロオロする絹代の演技に文句ばかりつけ、泣きべそをかくまで叱りましたので、
「こんな人大嫌い」
と彼女は恨みます。ところがのちに2人は大恋愛するのですから、清少納言がいうように男女の仲とはふしぎなものですね「村の牧場」 の興行成績は、全くだめでした。宏は会社からどなりつけられ、しばらくは仕事がもらえなかったほどです。
しかしたったひとり、ベテランの監督 五所平之助が絹代に注目します。今度は笑顔ではありません。ひたむきさがいじらしいというのです。このひたむきでいじらしい演技が、やがて絹代を大女優にするのです。いや、演技ではない。彼女の人柄がこうです。

田中 絹代

昭和2年(1927)平之助は絹代を主役に「恥ずかしい夢」 を制作します。若い娘さんのひたむきでいじらしい生き方を、コメディタッチで描いたものです。これが絹代の出世作になりました。
翌3年、松竹は彼女を東京の蒲田撮影所に移し、ヒットメーカーといわれた監督鈴木伝明とコンビにして、「近代武者修業」「彼と田園」「陸の王者」等を制作します。いずれもワンパターンではない。つねに新しいジャンルに挑んだものばかりで、たちまち松竹の看板スターになっていきます。
けれどもこの別れが絹代と宏の慕情をかきたてました。いつしか2人は深く愛しあっていたのです。困ったのは松竹です。純情スターとして売りだしたドル箱が、恋に落ちて世間の噂のタネになれば、ガクンと興行成績がさがる時代でした。
絹代があこがれて映画界に入るきっかけになった日本映画史上美人女優第1号といわれた栗島すみ子も、実は21才のとき監督 池田義信と結婚していますが、会社は12年間もひたかくしにかくし、ようやく公表したのはすみ子が33才で引退したときです。
「宏さんに会えないなら、松竹をやめます。結婚して家庭に入ります」
と泣き顔で訴える絹代を、お前はひとりで売りだしたつもりか、会社がどれほどカネをつぎこんだかわかっているのか、松竹の重役たちはこうつめよりました。(続く)

田中 絹代 (四)

「宏さん(絹代が初めて主演した映画「村の牧場」の監督清水宏のこと)と結婚したい。松竹はやめます」
と泣き顔で訴える松竹の看板女優田中絹代に手を焼いた会社は、母のヤスに説得してもらいますが、それでもだめでしたのでとうとう宏に圧力をかけました。
どうしても結婚するならキミの仕事はなくなるよ、この世界から追放されてもよいのかねと脅し、
「な、結婚するなというてるんやない。10年でいい。せめてあと10年のばしてくれとたのんでるんや。このとおりや」
と会社の幹部は頭をさげ、
「それともなにか。キミはあれほどの才能のある子をつぼみのままで終わらせる気か。花を咲かせ実りを待つのが監督たるものの務めやないか」
と弱味をついてきます。ついに宏は降参しました。
「キヌちゃん、ごめん。好きな人ができたんや。キミもいい人をみつけて幸せに暮らしてくれ」
と伝言を残して去っていきます。絹代はこんなみえすいた口実を作る宏が気の毒で、一晩中泣いたといわれます。こうして彼女の初恋は終わりました。

田中 絹代

女優としての絹代は順風満帆(まんぱん)です。小津安二郎監督の「大学は出たけれど」「落第はしたけれど」は、昭和初期の経済不況をコメディタッチで吹きとばすほど当たります。
また五所平之助メガホンの「マダムと女房」は、日本では初めてのトーキー映画(音声と画面が同時に出る映画)です。
それまでは画面は動くだけで無声、活動弁士(カツベン)と称する説明者が横に立って画面の内容を説明し、あわせて客席前の楽隊が演奏する仕組みでしたから、
「ひゃあ、画面がモノをいうで」
とみんなびっくりします。このトーキー映画からマスクがいいもののせりふの下手な、あるいは声の悪い女優は消えていきます。
ところが絹代は(一)でのべたように少女琵琶の出身だけに声がいい。まるで鈴をふるような美声で、特色のひたむきでいじらしい演技にぴったりです。
昭和8年(1933)平之助は、この美声をいかそうと初めて文芸映画川端康成作の「伊豆の踊り子」のヒロインに、絹代を起用しました。(続く)

田中 絹代 (五)

昭和8年(1933)映画監督五所平之助は、川端康成の名作「伊豆の踊り子」を映画化し、ヒロインに絹代を起用しました。何度も映画になった作品ですが、踊り子役のNo.1は絹代、No.2は山口百恵だと今もいわれています。
絹代からひたむきないじらしさをひっぱりだした平之助は、今度は猛烈な演技指導をします。目の位置から指先の動きまで、そのうるさいこと、やかましいこと。絹代が泣きだしても許してくれません。しかしこれが晩年演技派女優のトップだと評価される彼女の財産になるのです。文芸づいた絹代は、島津保次郎監督の谷崎潤一郎作「お琴と佐助」野村浩将監督の川口松太郎作「愛染かつら」に主演します。

田中 絹代

両作とも若者から年寄りまで魂を奪われた名画ですが、とりわけ白衣の天使(看護師のこと)高石かつ枝に扮した彼女が、若い医師役上原謙と演じた悲恋物語「愛染かつら」は、まさに一世を風靡(ふうび)、続篇・完結篇と続き、空前の興行成績をおさめます。主題歌の「旅の夜風」(花も嵐もふみこえて…)は、ミスコロンビアと霧島昇がデュエットで歌い、今も中高年の皆さんの愛唱歌になっています。文字どおり花も嵐もふみこえて生きたかつ枝の人生は、昭和初期のロマンそのもの、絹代の熱演はむりにひき裂かれた初恋の人清水宏への思いが凝縮し、まさに神がかりでした。
この時代から大日本帝国の中国侵入政策が始まります。昭和11年(1936)の二・二六事件(青年将校らが首相官邸を襲い、大蔵大臣高橋是清らを暗殺した事件)がおこり、社会不安は増大、軍部は力で政治に介入し、翌13年盧溝橋(ろこうきょう)事件(中国で軍事演習中の日本軍が襲撃されたと称し、中国軍や民衆に報復した事件)を皮切りに、日中戦争が勃発します。
「この非常時だというのに、不潔な男女の恋など不謹慎もはなはだしい」
「時代錯誤(さくご)だ。極寒不毛の戦地で戦っている兵士たちに、活動屋(映画関係者)はあいすまぬと思わぬのか」
と圧力をかけられ、愛染かつらはへし折られてしまいました。
それでも絹代の人気は落ちません。この年渋谷実監督の「母と子」や、同19年(敗戦の前年ですよ)の木下恵介メガホンの「陸軍」では、出征するわが子を見送る悲痛な母の気持ちを、絶妙な演技で代弁してくれます。(続く)

田中 絹代 (六)

東京で空襲の始まった年、清純な娘スター田中絹代は、軍国の母役に転じますが、アイドルとしての人気はまだまだ衰えませんでした。
しかし人間田中絹代の実生活は、淋しく幸せの薄い毎日だったのです。スターなるがゆえ、会社やファンが要求する虚像を日常生活でも演じなければなりません。もちろん気軽なお喋りのできる友だちは、ひとりもおりません。買物も食事も自由にできず、あいかわらず母娘2人暮らしです。
その母ヤスは経済音痴のうえ、無類のお人好しでした。かつて故郷の下関で父久米吉が早世したとき、親切ごかしに寄ってたかって資産をまきあげた親類筋は、貧乏のどん底で母娘が大阪に夜逃げしたとき、鼻もひっかけなかったくせに、絹代の成功を知るや砂糖にたかる蟻のように群がってきます。ヤスは愛想よくすぐにお金を渡しました。

田中 絹代

敗戦後絹代は誰もが 目を回すような大変身をとげます。きっかけは昭和23年(1948)溝口健二監督の映画「夜の女たち」に出演したことです。戦争に負けて廃墟と化した大都会の夜には、生きるために転落した夜の女(当時のことばではパンパン)たちが、たむろしていました。
健二は今まで国民が抱いていた絹代のイメージを、徹底的に破壊し、次から次におぞましい演技を要求したのです。彼女はすでに38才になっていましたが、あのとおりの美貌です。美しいだけに凄絶(せいぜつ=むごたらしいほどすさまじい)です。絹代のファンたちは顔をおおい、まともには見られませんでした。しかし評論家たちは絶賛します。
一般にアイドル女優の人気は短いものです。人間誰でも年をとる、いつまでも清純アイドルでおられるはずはない。それでからを破ろうとしますが、今までのイメージと異なりますからファンは横を向きます。名子役といわれた人が消えていくのはこのせいです。百も承知で絹代はなりふりかまわず、汚れ役に挑戦しました。
翌24年、絹代はハリウッドに招かれ渡米します。猫も杓子(しゃくし)も海外に行く現在とはちがいます。あこがれのハワイ航路の時代です。ところが3ヶ月ほどで帰国した彼女に、ファンは仰天しました。まるでマリリンモンローのような厚化粧、サングラス姿で空港におり、イエーッと投げキッスまでしたのです。世間は怒りました。(続く)

田中 絹代 (七)

昭和24年ハリウッドから帰国した絹代の異様な姿に、反米感情が強くなっていた世間は、
「アメリカかぶれしやがって」
「ハリウッドの物真似するこっけいな女」
などと厳しく批判し、彼女の人気はいっぺんに凋落(ちょうらく)していきました。
しかし映画監督溝口健二はそうは思いません。彼女のマンネリを嫌う性格を十分に理解していたからです。投げキッスに苦笑していた健二は、なんとアメリカかぶれの絹代を、日本の古典を題材にした文芸映画に起用します。これがふたたび絹代ブームをまき起こした「西鶴一代男」「山椒太夫」そして亡霊になって夫の帰りを待ちわびたやるせないやさしさにあふれ た上田秋成作「雨月物 語」ベネチア国際映画 祭受賞作)などです。

田中 絹代

新しく開発された絹代の演技力にほれこんだのが名監督木下恵介でした。脚本を見て思わずたじろいだ絹代をどなりつけて製作したのが、女優 田中絹代最大の傑作「楢山節考(ならやまぶしこう)=昭和33年上映」です。
「70才の老婆おりんの住む貧しい農村では、役に立たぬ老人を山奥に捨てるのがしきたりだ。やさしい息子辰平夫婦は捨てるのをいやがるが、おりんは自分で丈夫な前歯を折り、早くわしを捨てんかと催促する。生きているのが恥ずかしいとしがみつかれた辰平は、とうとう泣きながら老母を背負い、楢山の奥に入って放置した。雪のしんしん降るなかに、おりんはひとり凝然(ぎょうぜん)と正座して死を待つ…」というあらすじで、全く無名だったギタリスト深沢七郎の、中央公論新人賞受賞作品の映画化です。
「お姥(んば)捨てるか裏山へ 裏じゃかにでもはってくる…」
こんなことばが物悲しく作曲されてバックに流れる陰惨なクライマックスは、おりんに扮した絹代の鬼気迫る演技力もあって、大変な衝撃を与えました。
小津安二郎の「彼岸花」に主演したあと、熊井啓監督の「サンダカン八番娼婦館・望郷」で、あらゆる演技賞を独占します。これはからゆきさん(戦前海外に出稼ぎにいった貧しい娘たち)の老婆を描いたもので、ベルリン国際映画祭でも最優秀演技賞を受けています。
昭和52年(1977)3月、67才で永眠。今ふりかえると楢山節考のおりん婆さんを演じたときは、48才のはずです。とうてい信じられない姿でした。(終わり)