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2014年2月19日森 狙仙(一)

江戸時代の大坂には、京や江戸に負けない優れた画家たちがいました。今回からなにわ画壇の天才たちを紹介します。
トップは森狙仙です。猿画を描かせたら、あの円山応挙も及ばぬといわれた絵師です。彼は延享4年(1747)現在の兵庫県西宮市に生まれました。幼いころから絵が大好きで、狩野派の勝部如春に弟子入りします。青年時代、師匠は彼の才能を認め、
「お前、長崎に行っておいで。あそこにはオランダ画といって、日本にはない精密な描写と色彩の絵がある。本当は私が行きたいが、もう年じゃ。代わりに勉強してこい」
といいつけます。

狙仙の猿画

長崎に移った狙仙はオランダ人から西洋画を教わり、めきめき腕をあげ天狗になります。あるとき知人から猿をもらい、庭木につないでかわいい仕草と表情を十数枚スケッチし、得意になってみせびらかします。誰もがこらすごい、本物よりようできてる…と感心しますが、ひとりの猟師が眺めて、
「これは飼い慣らされた猿だ。本物の猿はこんなかっこうはせぬ。よく見ろ。目がおべっか使ってる」
と、大笑いしました。ドキッとした狙仙は、野猿が多く棲息している多良嶽(たらだけ=長崎県藤津郡。標高983m)に登り、小屋を設けて居住、数年にわたって猿を観察し、数千枚の写生画を描き、やっと納得して山から下りてきます。
当時、動物画の日本一は、京都の円山応挙でした。独特の写生画を完成し、近代絵画の誕生は応挙に始まるといわれた絵師です。狙仙応挙先生に批評してもらおうとスケッチの山を大ぶろしきに包んで背負い、紹介状も持たず、いきなり応挙の自宅を訪ねました。
「あかん、あかん。先生はお忙しい。帰れ」
と門人に玄関払いされかけますが、あまりにも大声でわめくので、何事じゃと応挙が出てきます。見ると汚れた着物をまとった貧相なひげだらけのやせた男が、いかにも世渡りの下手そうな態度で、先生、猿の絵がやっとできましたと、ペコンと頭を下げます。狙仙応挙より14歳年下です。
応挙も鼻先きで追い返しますが、無理に置いていったふろしき包みをあけて驚嘆しました。
「狙仙の猿画は、単なる写生ではない。迫真だ。いや、真を超えて古今無双だ」
のちにこう語っている応挙は、さっそく狙仙の技法を真似ることにします。(続く)

森 狙仙(二)

日本画壇の重鎮円山応挙は、持ち込まれた無名の絵師森狙仙のおびただしい猿画に驚嘆し、ひそかに狙仙の技法を徹底的に分析し、円山派の画風にとり入れます。
ただし応挙はその御礼のつもりでしょう。世渡りの下手な狙仙を援助し、狙仙の養子森徹山(てつざん)に息子円山応瑞の妻の妹を嫁がせ、親類関係を結んで狙仙を援助、大坂に画壇「森派」を築かせています。これはなかなかできることではなく、応挙の器量の大きさが感じられます。
大坂へ移った狙仙は今の西区土佐堀1丁目あたりに居住し、やがて名声は世間に広がっていきます。朝日新聞の創刊に協力した文人松本晩翠の文章(部分要約)に、

狙仙の猿画

「私の祖父は狙仙の近所に住んでいたので、よく彼を知っていた。夏の夕方、狙仙はいつも戸外に床几(しょうぎ)を出して、帷子(かたびら)のじゅばんを着て煙草盆を前に置き、立膝(たてひざ)をして往来の人を眺めて、身じろぎ一つしなかった。よほど人の動作に興味があったのだろう。その容体は猿にそっくり。猿の写生にとりつかれたそうだが、体つきまで猿の感化を受けて、初めて猿画が描けたのだろう…と、幼い私の頭をなでてこう語る祖父の言葉を聞き、わからぬなりに絵の神様とはこんな姿であろうと感動した」
と、記されています。
「容体は猿にそっくり」は、晩翠の祖父の誇張ではありません。古書『浪華人物誌』にも「此人平生起居飲食共如猿」と書かれており、猿画に生きた名人の日常生活がしのばれます。
狙仙は文政4年(1821)76歳の天寿を全うしています。西福寺(北区兎我野町)の墓地に彼の墓「森狙仙之墓」が残り、子孫の森忠雄「風雨破滅之為 原型ニ依リ再建 昭和三年十月」と、側に刻んでいます。
かつて西福寺の本堂の戸襖(とぶすま)には、狙仙の描いた「龍虎図」があり、その見事さには誰もが感嘆しました。この図を見るために参詣する人も多く「絵画仙境寺」とまで言われたのですが、惜しいことに昭和20年(1945)の空襲で、本堂もろとも焼失してしまいました。
狙仙の絵は彼が亡くなってからブームになり、高値がつきます。これに目をつけた画工寉山(かくざん)が狙仙を真似てたくさんの猿画を描き、偽造した狙仙の落款(らっかん)まで押して売りさばき、大儲けをしています。(続く)

森 狙仙(三)

前回述べたように、猿を描いては日本一といわれた森狙仙の絵が、大変な高価で取り引きされたのは彼が没してからです。
そのため画工寉山(かくざん)をはじめ、狙仙の絵を模写し偽の落款を押して売りまくる不届き者が増えました。それで現在狙仙の絵だといわれるものには、多くの贋作(がんさく)や真偽不明の作品が混じっており、とても残念です。

狙仙の墓※森狙仙(二)参照

ところが、万博公園の近くの紫雲寺(吹田市山田2丁目)に、狙仙真筆の天井画が82枚も保存されていたことが分かり、話題になりました。彼が滞在したおり御礼だと絵筆を振るったものですが、日付けがないので、いつ頃の作品かは確定できません。しかし筆法から見てあぶらののりきった五十代の後半かと思われ、機会があれば拝観をお勧めします。狙仙の名画がこれほど完全に保存されているのは、全国的にも珍しいでしょう。
山田にはこんな伝承もあります。この村は桃が名産でしたが、猿が実を食べてしまうので困っていました。あるとき番人がうまそうに食べている猿に、こらあと長い棒切れでなぐりかかろうとすると、木の下にうずくまって紙になにやら描いていた男が、

狙仙の猿画

「すんまへん。ちょっとの間、このままにしておくんなはれ」
と頼みます。
「あほ、桃の実喰われるやんか」
と怒っても、
「もうちょい、もうちょいや」
と桃を喰う猿をスケッチしています。
「うまいなあ」
と番人が見とれているうちに、三つも四つも喰われてしまいます。
「もうあかん。しんぼうでけへん」
と大声を出しても平気の平左、
「もうちょい、もうちょいや」
と何枚も何枚もスケッチしたあと、
「おおきに。わいはそこの紫雲寺に泊まってる八兵衛や。桃のお代払うさかい、すまんけど取りにきてや」
とにっこり笑って帰っていきました。八兵衛とは狙仙の本名です。もとより番人は狙仙など全く知りませんから、けったいな男やなあ…とあきれました。
狙仙の実兄森周峰も画家です。彼は元文3年(1738)生まれですから、9つ年上です。幼いころから大坂の絵師吉村周山の内弟子になり、師匠の一字をいただいて周峰と名乗ります。さらに月岡雪鼎(せってい)にも教わり、山水・人物・花鳥と何を描いても一流ですが、狙仙の画風とは大ちがいでした。(終わり)