わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月19日浅井 薫(一)

浅井薫(かおる)て誰?と、どなたも首をかしげるでしょう。宝塚歌劇が誕生したときのスター、男役第1号の高峰妙子の本名です。
明治45年(1912)私鉄箕面有馬電軌(現・阪急電車箕面・宝塚線)を開通させた社長小林一三は、営業成績をあげるため、終点の宝塚に温泉と動物園、それにプールをつけた「宝塚パラダイス」を設けますが、乗客は今一つ伸びず、赤字でした。

小林一三

小林一三

なんとかいいアイデアはないかと頭をひねった一三は、ある日評判を聞いて北浜の三越呉服店を訪ねます。三越では客寄せのためかわいい少年たちを集め、制服を着せ、「三越少年音楽隊」と名づけ、ナマ演奏をさせていました。
「うまいで。クラシックから童謡までやりよる。タダで聴ける」
とうわさになり、買物客が倍加します。
若いころ一三は、いっぱしの文学青年で、探偵小説で入選したこともあります。芸能にも関心があり、何回も三越に通ううち、
「俺もやったろ。こっちは女の子でいこ」
と、ポンとひざをたたきます。これが宝塚少女歌劇の起こりです。
役員会議で一三は猛反対されます。赤字が増えるだけやない、芝居をやると男女の風紀が乱れると言うのです。たしかに歌舞伎が男ばかりなのは、徳川幕府が風紀が乱れるとして、女をしめだしたからです。
ところが一三は、
「なに言うとる。女の子だけじゃ。男の役は女にやらせる」
と役員たちを押さえつけ、紙に大きく「清く正しく美しく」と書いて、壁にはりました。このモットーは今も生きていますね。
大正2年(1913)一三は、歌と芝居に才能のある少女たちの、募集を始めます。予想以上に多くの応募者が集まりますが、そのなかに浅井薫がまじっていました。
は明治33年(1900)大阪の東区(現中央区)に生まれました。父は大阪府警玉造署に勤務した警官浅井寛竜で、その次女です。2男3女の子供がおり、母は6番目の子を産むとき大変な難産で、母子ともに死亡します。父寛竜は5人の子を男手ひとつで育てますが、幸い長女がしっかり者で母親役を務め、父をよく助けます。次女のは天性明朗でお茶目。すぐふざけていつも家族たちを笑わせ、父もとりわけかわいがっていました。そのが宝塚を受けたいと言いだしたのです。(続く)

浅井 薫(二)

玉造署の警官浅井寛竜の次女浅井薫は、小林一三が日本で初めて少女だけの芝居を興行しようと開いた「宝塚少女歌劇養成会」を受けさせてと、父にねだります。

「学費いらんそうよ。電車もタダで乗せてくれる。踊りと歌を勉強するところで、父ちゃんの言う不良の行くとことちがう。ね、お願い。受けていいでしょ」
とだだをこねます。いつもはとても素直な子ですのに、今度ばかりはしかりつけても聞きません。

浅井薫(高峰妙子)

浅井薫(高峰妙子)

寛竜はおかたい警察官の中でも、石部金吉(融通のきかない物堅い男のこと)とあだ名がついたほどのコチコチですが、親バカには変わりがない。仕方なく同僚に相談すると、
「薫ちゃん、歌うまい。踊りも真似が上手や。ま、受けさせてみ」
「そやけどテスト難しいそうや。落ちたら本人もあきらめるで」
「もう13歳やろ。ボチボチ親の言うことを聞かなくなる年ごろや。女の子の反抗期はこわいで」
などと口々に言われ、渋々承知します。

試験の日、ついて行ってくれた長女が帰ってきて、
「お父ちゃん、あかん。きれいで金持ちの子がいっぱい来てた。かわいそうやけど無理」
と報告しますから、父はやれやれと胸をなでおろします。ところがなんと合格してしまったのです。姉や弟たちに抱きついてはしゃぎ回るを眺めながら、父寛竜は腰がぬけてへたりこみました。

1ヶ月経ったころ、
「お父ちゃん、月給もろた」
は、袋ごと父に差出します。あけてびっくり、7円50銭も入っています。この時代、大学の卒業生(今とちがって若者の2%ぐらい)の初任給と、ほぼ同額です。今度は父が怒りました。小学校を卒業したばかりの、13歳の小娘です。
「こんなうまい話があるもんか。おおかたはだか踊りでもやらせる魂胆(こんたん)じゃろ」
こう考えた寛竜は、そこは警察官です。非番の日に変装してこっそり養成会を訪れ、またもや目を回しました。明るいけいこ場には楽しそうな、しかも礼儀作法の正しい少女たちが、歌ったり踊ったりしていたのです。それでも合点がいきません。何度も行ってついにばれ、に大泣きされたと伝えます。(続く)

浅井 薫(三)

13歳の少女浅井薫が見事合格した「宝塚少女歌劇養成会」を開いた箕面有馬電軌(阪急電車)社長小林一三は、この事業を成功させるため、あらゆる情熱を注ぎました。

まず指導者に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身で、オペラの作曲に天才的な才能を持っていた安藤弘と、妻で歌手の智恵子を招きます。智恵子も同校卒業生で、あの三浦環(たまき・ヨーロッパで蝶々夫人を演じ、国際的な評価を得る)と首席を争った声楽家です。宝塚歌劇の芸術的香りと高い品性にあふれたオペラは、この二人の指導が出発点です。

ドンブラコの台本

ドンブラコの台本

 

翌年の大正3年(1914)4月1日から5月30日まで、日本初の少女歌劇公演が行われます。場所は現在の宝塚大劇場のロビーあたりにあった室内プール場を改装したところで、「パラダイス劇場」と名づけられます。脱衣場が舞台になっており、間口7m。客席はプールに板を張ってござを敷いた程度。第1回公演と銘打ったものの、実はこの期間に開かれた「婚礼博覧会」のアトラクションでした。
演目は「ドンブラコ」「浮かれダルマ」それに集合ダンス「胡蝶」の3本立てです「ドンブラコ」はどなたもご存知の昔話桃太郎を西洋風のオペラに変えたもので、主役の桃太郎が演じることになります。
「お父ちゃん、ウチ、高峰妙子という芸名で、桃太郎やるねん」
娘にこう言われた父親の玉造署警察官浅井寛竜は、目を白黒させます。

実は毎日熱心にけいこを見にきていた一三が、
「桃太郎はあの子がいい」
と指名したのです。演出の安藤弘があわてて、あの子は歌はうまいが芝居は下手やと言うと、
「芝居なんかどうでもええ。無邪気でやさしく、おまけに礼儀正しい。まさにわしのモットー、清く正しく美しくの見本じゃ」
と、天の声を出したからです。

たしかに「見本」でした。第一、毎日梅田から宝塚まで無料のパスで電車に乗れるのが、楽しくてたまらない。歌と踊りは生まれつき大好きです。智恵子の指導はきびしく、泣きだす子もたくさんいましたが、父寛竜のしつけはもっとこわい。叱られるのはなれっこです。それに天性の澄んだ清らかな声も、大変チャーミングでした。
「ほ、ほんまに桃太郎やな。鬼退治の…」
と父寛竜は念を押します。(続く)

浅井 薫(四)

大正3年(1914)4月1日から、プールに板を張った特設舞台「宝塚パラダイス」で、日本初の少女歌劇が興行されます。演目は「ドンブラコ」「浮かれダルマ」それに集合ダンス「胡蝶」の三本立てです。
「お父ちゃん。ウチ、高峰妙子の芸名で、ドンブラコの桃太郎やるねん。初日、見に来てね。ね」
と、まだ14歳の娘にせがまれた父親の玉造署の警察官浅井寛竜は、目を白黒させ、
「ほんまに鬼退治の桃太郎やな。まさか濡れ場(男女の愛欲シーン)なんかないやろな。あったら風俗紊乱(びんらん)の罪で、お前を逮捕せなあかん」
と、モゴモゴ言います。

桃太郎(高峰妙子)

桃太郎(高峰妙子)

「娘を芸人にしたことが上司に知れると、クビになるぞ」
と親類筋からもおどされる時代でした。
「あほ言わんといて。みんなお化粧するさかい、桃太郎がウチやいうことも、誰にもわからへん」
と娘に肩をたたかれて、父はおずおずと宝塚へ向かいました。
舞台装置は食堂のボーイさんたちが作り、衣装とメーキャップは宝塚温泉の芸者衆がひきうけます。出演する「宝塚少女歌劇養成会」の一期生は、総勢16名。なにしろ初めての舞台ですから、ウロチョロするばかり。芸者衆がつかまえて着せ替え 人形のように手取り足取り着せるのですが、メーキャップの濃いこと、歌舞伎役者のような厚化粧です。
観客の大半は、温泉に入浴していたオッチャンたちでした。
「オイ、歌劇てなんや」
「知るかい。桃太郎の昔話やさかい、派手な立廻りのある鬼ごっこやろ」
「アホ言え。女の子ばかりやないか。鬼さんこちらと、手とって踊る芝居や」
板張りに敷いたござに座ったオッチャンたちは、頭に手ぬぐいをのせ、いっぱい機嫌で勝手なことを言いますが、幕が開くやいなや、
「むかし むかし そのむかし じいさまとばあさまが おったとさ…」
と、まるで小学校の学芸会のように黄色い声をはりあげて、舞台せましと歌い踊る少女たちを見て、ヒャァと声をあげました。

おまけに せりふにまで奇妙なメロディがついているのです。
「なんじゃ、これ」
とびっくりするオッチャンたちに、物知り顔のご隠居さんが教えます。
「これはな、西洋のナニワ節じゃ」  (続く)

浅井 薫(五)

大正3年(1914)4月1日から「宝塚パラダイス」で開催された日本初の少女歌劇「ドンブラコ」は、物知り顔のご隠居が、
「これは西洋のナニワ節じゃ」
と解説しただけあって、誰もがあいた口がふさがりませんでした。
この「ドンブラコ」で主役の桃太郎を務めたのが、14歳の少女浅井薫(芸名高峰妙子)です。彼女は箸が転げただけでもおかしがる笑い上戸。客席のオッチャンたちの野次にプウーッと吹きだし、何度も芝居が中断するありさまでしたが、宝塚歌劇男役の第一号です。

浅井薫(高峰妙子)

浅井薫(高峰妙子)

また「ドンブラコ」で鬼どもにさ われていたお姫さま役が、娘役第一号の雲井浪子です。彼女はのちに早稲田大学教授で有名な劇作家坪内逍遥の息子坪内士行の妻になります。今でも時々テレビ番組に顔を見せる女優坪内ミキ子の、お母さんです。
芝居が終わったあとの集合ダンス「胡蝶」が、宝塚歌劇の名物、フィナーレのラインダンスの始まりで「あでやかな衣装で舞い踊り、たわむれる蝶のようであった」と記されていますが、総勢16名ですから知れたものですね。

しかし少女歌劇はスムーズには広がりませんでした。演出家の安藤弘と社長小林一三が対立したからです。は少女だけのオペラは世界にも例がない、男子を入れろと主張。清く正しく美しくの一三とけんかになり、第3回公演の直前、は自分の作曲した楽譜を持ったまま雲隠れします。
それでも若いころ文学青年だった一三は屈せず、自作「紅葉狩」とさしかえて興行。大正7年(1918)までに19本の脚本を書き公演を続け、も感心して復帰したほどです。
とにかく一三の少女歌劇にかけた情熱は、すさまじいものでした。邦舞界の巨匠楳茂都(うめもと)陸平、画家岸田劉生(りゅうせい)の弟の岸田辰弥、ジャーナリストの久松一声、それに先記した坪内士行らに、脚本や演出・振り付けを頼み、能・狂言までとり入れて、本格的な、かつ日本独特の女性オペラに進化させていきます。
昭和2年(1927)本場パリで修業した岸田辰弥は、帰国後公演した「モンパリ」で、初めて大階段を用いたラインダンスを披露、大評判になりました。
は生涯宝塚歌劇ひとすじでした。彼女の工夫した男役の演技が、今もヅカの基本です。声楽講師としても多くのスターを育てます。(終わり)