わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月20日奥田弁次郎・フミ(一)

千日前(中央区千日前1~2丁目)は、道頓堀と並んで、大阪市の繁華街の中心地です。奥田弁次郎フミ夫妻は、この千日前を開発した最大の功労者です。それまであそこは人の寄りつかぬ墓地跡でした。

フミは天保8年(1837)丹波(京都府・兵庫県北部)の農家に生まれました。小柄ですが愛敬のある働き者で、村の青年たちのあこがれの的、言い寄る若者は多かったのですが、なんと18歳のとき「ほら吹き伊兵衛」と呼ばれていた同年齢の奥田伊兵衛と、相愛の仲になります。

フミ(左)弁次郎像

両親はあいつはあかんとひきはなそうとしますが、二人は聞く耳を持たぬ。駆落ちして故郷を捨て大阪へ逃げ、高津(中央区)あたりで小さな八百屋の店を開きました。フミはひとりで店をきりまわしますが、なるほど伊兵衛は怠け者、大言壮語して一攫(いっかく)千金を夢見て、いっこうに働きません。少しでも小銭がたまると内緒でもちだし、賭博場に出入りしてすってんてんになるありさま。とうとう店は人手に渡り、伊兵衛は夜店や見世物小屋を手伝う香具師(やし)仲間に加わります。

ただひとつだけ伊兵衛には、なみはずれた才能があります。能弁です。ペラペラしゃべりだすと、嘘かほんとか分からず、お前、ほんまに弁が立つなあと誰もが感心するうち、弁次郎というあだ名がつきます。本人も得意になって弁次郎と名を改め、いつの間にかいっぱしの兄貴分になっていました。

明治3年(1870)大阪府は千日前にあった墓地を阿倍野(阿倍野区阿倍野筋4丁目)に移して、千日前一帯の開発に着手します。

このあたりは元和元年(1615)頃から大坂城初代城主松平忠明が、阿波座や渡辺、三津寺にあった墓地を、新しい城下町を建設するために集めた所です。それまでの地名は「下難波」でしたが、寛永年間(1624~44)やはり移転してきた法善寺が、千日回向(千日の間法華経を誦して講説する法会のこと)を営んだのが評判になり、同寺に「千日寺」の通称がつき、墓地は寺の前だったので「千日前」の地名がついたわけです。

千日前墓地には刑場があり、処刑された囚人の首をさらす獄門台まで置かれました。雁金文七、極印千右衛門、遊女かしく、亀屋忠兵衛など、歌舞伎・浄瑠璃で有名になった人たちの首も、この台上に並べられた恐ろしい墓地でした。(続く)

奥田弁次郎・フミ(二)

明治3年(1870)大阪府は千日前を道頓堀とセットにして繁栄させようと、千日前墓地を阿倍野に移転させますが、なにしろ人骨の混じる灰山(火葬したあとの遺灰を積んだ所)があちこちに残っており、手のつけられないありさまでした。

「火の玉が飛んでたで」
「なんとも言えぬうめき声が聞こえた」
「わいはこの目で幽霊を見た。ほんまに見たんやぞ」

と町雀どもが、真顔でうわさしたころの話です。

千日前墓地六地蔵

明治7年4月のある日、弁次郎はふらっと千日前墓地跡にやってきました。実は小学生の息子の徳次郎に、

「こら、ごんたばかりせんとちっとは勉強せえ」
と父親らしく説教したところ、

「父ちゃんかて働いたらどや。母ちゃん、いつも泣いてるやないか」
と幼い徳次郎が目をむいたのです。腹を立ててポカンと頭をたたいてとびだしますが、なんともいえず淋しくなり、歩き廻ったあげく墓地にたどりついたのです。頭の中のどこかに「葬儀屋の山田屋重助な。あいつ、三勝・半七(浄瑠璃で有名な心中事件の主人公)の追善供養やいうて、あやしげな遺品を墓地で売ってもうけたそうや」との香具師(やし)仲間から小耳にはさんだうわさ話が、残っていたのかも知れません。

ふと見ると墓地の手前に、一軒だけオンボロの茶店がポツンと残っています。墓地で法要のあったころ、休憩した茶店の名残です。留守番のばあさんが弁次郎に話しかけました。

「行くあてがおまへんね。そんでおるんやが客なんか一人も来まへん。なんでやろ、
あっちの道頓堀や心斎橋は、あんなににぎやかなのに。ここのあき地、もったいないと思いまへんか」
「そら思うけど、こんな気味悪いとこ無理や。お化けが出ると言うやないか」
「けどな、あっこの灰山、1坪50銭やで」
「へえー。50銭で買えるんやったら、まあ安いな」

弁次郎があいづちを打つと、ばあさんは笑いだします。

「あほやなあ。お上(かみ)が50銭つけて、タダでくれるんやで」

えっ! 銭もつけてくれるんか…弁次郎は思わずとびあがりました。(続く)

奥田弁次郎・フミ(三)

明治7年(1874)4月、お化けがでると恐れられた千日墓地跡(中央区千日前1~2丁目)の灰山(火葬した遺灰を積み上げた所)が、「1坪に50銭つけてタダでもらえる」と、たった一軒だけ残った茶店のばあさんから聞いた弁次郎は、とんで帰り妻のフミに、
「灰山はこわいけど50銭はほしいなあ。10坪もろたら5円もくれるで」

と報告します。フミは返事もせず家中をガサガサ探していましたが、いきなり2百円もの大金を投げだし、こう言いました。
「灰山はあかん。どけるのになんぼお金かかると思うてるのや。それよかこれでばあさんごと茶店を買いなはれ」

千日寺絵図(難波鑑)

2百円は夫に内緒で、爪に火をとも ようにしみったれして、こっそりためていたヘソクリの全額でした。
「ヒ、ヒヤー。お前、山内一豊の妻や」

弁次郎は叫びます。貧しかった下級武士の山内一豊は、主君織田信長が家来に馬くらべをさせると言いだしたとき、まっ青になります。馬など持てる身分ではない。ところがわけを知った妻は、かくしていた持参金黄金10枚をとりだし、とびきり上等の名馬を買わせ、一豊は大いに面目をほどこし、これがきっかけになって立身出世、やがて土佐20万石の大名になる。この話は戦前の教科書で内助の功、貞女のかがみとして絶賛されたものです。大河ドラマにもなりましたね。

目をまん丸くして喜ぶ夫にフミは、涙をいっぱいためて、
「あんた、今度こそ本気で働いてな」

と頼みました。なにしろ18歳のとき、親の反対を押しきって駆け落ちし、一緒になったフミの頼みです。初めて目のさめた怠け者弁次郎は、生まれ変わったような気分になり、まじめに働くと誓います。

動物好きのフミは、以前から弁次郎が香具師(やし)仲間からもらった猿をかわいがっており、赤い甚平(じんぺい)を着せて、ひまなとき芸を仕込んでいました。その猿もつれて改装した茶店にひっこしますが、
「千日前にけったいな猿がおる。甚平着たり脱いだりしよる。茶かてはこんでくるで」
と評判になり、客が増えてきます。

こらいける…ポンとひざをたたいた弁次郎は、茶店の横にむしろがけの小屋を建て、見世物興行を始めます。これが旧墓地千日前が大阪を代表する繁華街になる第一歩ですが、夫婦は夢にも思いませんでした。(続く)

奥田弁次郎・フミ(四)

明治7年(1874)千日前墓地跡で小さな茶店を始めた弁次郎フミ夫婦は、店の隣に小屋を構え、見世物(みせもの)興行を始めます。

といっても資金がないので知れたもの。チュンチュン太夫(雀)の曲芸に大百足(むかで=実は伊勢エビでこしらえた作り物)、生き人形(ロウ細工のマネキン)、酒呑(しゅてん)童子(大江山の鬼)の操り人形ぐらいですが、そこは口から先に生まれた弁次郎です。おおげさに面白おかしくはやしたて、たまには軽業や女相撲、声色(声帯模写)、火を吐く人間ポンプなども登場させます。

まあ紙芝居に毛が生えた程度ですが、入場料はとりません。そのかわり演目が一つ終わると、フミがザルを持って投げ銭を求めて観客の中に入り、
「あの芸、おもしろか ったでしょ。お好きなだけでいいさかい、ゼニ投げておくんなはれ」
「あの人、じいちゃんばあちゃんに4人の子までかかえてまんね。食うのに困ってはる。助けてあげてな」
と声をかけます。

奥田弁次郎

集まったゼニは折半です。つまりよその小屋とちがって、客に受ければ受けただけ芸人さんの実入りは多くなるのです。これでは芸人さんもはりきらざるを得ません。

一般にギャラは芸歴や年齢、性別や人気度で差がつきますが、ここでは関係がない。なんでもいい、客に受けたほうが勝です。やる気をかきたてるフミの商法は当たり、小屋は繁盛していきました。

やがてプロの興行師たちも、千日前に注目します。次々に芝居小屋や寄席(よせ)が並び、射的(的の人形や菓子を射落とす遊び)にだるま落とし、風船釣りに金魚すくいなどの子供向きの遊戯施設も登場。当然うどんにそば、おでん・汁粉といった屋台が立ち、発展して酒や寿司を扱う飲食店も生まれます。

心斎橋・道頓堀とセットにして千日前を繁華街にしたい行政の思惑も加わり、弁次郎フミ夫婦のまいた種は、芽をだし枝葉を伸ばし、花が咲き始めました。
「わいはじきに使うてしまうさかい、かあちゃん、お前がためといて」

興行が面白くなった弁次郎は、もう大ぼら吹きの賭博好きではありません。ゼニのことはいっさいフミに任せ、新しい企画を次々にたて、猛烈に働きだします。フミは質素倹約型ですが、殖産の才能は人一倍ありました。(続く)

奥田弁次郎・フミ(五)

千日前墓地跡に茶店と寄席(よせ)小屋を出した弁次郎フミ夫婦は、人集めのため夜店を開く計画を立てます。
「な、あかりを持つさかい、あんた、千日前に夜店置かへんか」

フミは夫のかつての香具師(やし)仲間に、声をかけて廻りました。当時の大阪では夜店を出すのは船場のような一等地に限られます。しかしあかり(灯油代)を負担してもらえるのなら、話は別です。

「弁のおかみさんの頼みや。聞いたろやないか」
男気のある夜店を仕切る親分が、重い腰をあげてくれます。こうして刑場もあったお化けが出ると言われた千日前墓地跡にも、人々が集まるようになってきます。今では不夜城のような千日前も、120年ほど前はこうでした。
フミは住居もかねた茶店の框(かまち 玄関のあがりぐち)に、たらいのように大きいおひつを置き、茶碗と漬物皿を並べます。夫も自分も使用人も芸能人も、いつでも手のあいたときに来て勝手に好きなだけ食べればよい仕組みです。たまにはめざしやみそ汁、卵焼きのつくときもあります。

「へえー、ご寮はん。今日はごきげんやな」
と誰もが喜んで、腹いっぱいかきこみました。食器はそのまま水を張った樽にほうりこみ、すぐ仕事場にとんでいけるのが、この工夫でした。

明治中期 千日前絵図

こうしてかなりのゼニをためたフミに、ある日弁次郎が声をかけます。
「なあ、もっと大きいことやれへんか」
なるほど元大ぼら吹きだけあって口は達者、立て板に水とばかりしゃべりまくる内容は、まことに気宇壮大。まるで夢のような話ですが、いつもは寝言いわんときと背中をどやすフミも、じっくり耳を傾けます。夫の目の色がちがっていたからです。

明治30年(1897)弁次郎フミは、汗と涙の結晶を持って、なんとヨーロッパからアメリカに渡ります。英語のできぬ夫婦がどこでどう交渉したかは分かりませんが、ゴーチェ団やチャネリー曲馬団などの奇術やサーカス一座を招いて、千日前で興行することに成功します。

これらの一座は、うらさびれた場末で興行する名もない芸人たちの集まりでした。しかし、情報網が今とは比較にならぬ時代です。世間は超一流の芸能集団だと思い込みます。(続く)

奥田弁次郎・フミ(六)

明治30年(1897)弁次郎フミ夫婦は渡欧し、チャネリー曲馬団を招いて千日前で興行する企画を、実行します。この曲馬団は本国では無名の一座でしたが、当時の日本では誰もそんなことは知りません。

「ヨーロッパから超一流のサーカスがやってくる。日本初公開やぞ!」
弁次郎が得意の大ぶろしきを広げてしゃべりまくりますから、みんなその気になる。第一入場料が格安です。口車にのせられて、ばあさんまで死に土産に見とことやってきて、連日大入り満員となります。

また曲馬団にしても日本の実情にうとい。夫婦の言葉を真(ま)に受けて、
「ジャパンの大プロモーターベン・フミ興行会社の招聘(しょうへい)だ」
と信じ込んでしまいます。

フミ(左)弁次郎像

フミはそんな彼らを、
「あんたらの芸は世界に通用する。目の肥えた私の言うことやさかい、まちがいおまへん。
さ、きばりなはれ」
とおだてあげる。ドサ廻りの苦労を重ねただけに、こんなお世辞は初めてです。一座は大感激、汗水たらして熱演します。
「男も女も年寄りも関係あらへん。芸歴なんかどうでもええ。いちばん客をわかした芸人さんに、
ギャラをはずみまっせ」
とのフミの方針も異国の人たちのハートをつかみ、興行は大当たりで幕となります。

フミは人情味の厚い女性でした。尽くしてくれた芸人さんの面倒をとことんみます。酒や道楽に金を捨てる芸人には、
「あんた、金はためるもんや。ためたらかならず子を生む。生むようになってから使いなはれ」
と、母親代わりになって諭します。

こんな話もあります。氷雨の降る真冬の夜ふけ、フミの家の軒先にずぶぬれになった若い男女が雨宿りをしているのに気づきました。
「どないした。ま、入りなはれ」
と招き入れ、火鉢にあたらせ熱い茶をだしますと、だまってとんがっていた二人はわっと泣きだし、和歌山の田舎から駆落ちし、あてもなく大阪へ流れ着いたと口を開きます。
フミも親の猛反対を押しきって18歳のとき、弁次郎と駆落ちしたのが人生の始まりです。

「しばらくうちにいなはれ。なんとかしてあげるさかい」
と言いながら、あたたかい客用ふとんを押入れから出し、敷いてあげました。 (続く)

奥田弁次郎・フミ(七)

時は流れ世は改まり、千日前には「アシベ倶楽部」「帝国クラブ」「第一~第三電気館」「キネマ倶楽部」等が立ち並び、道頓堀とともに大阪を代表する興行・繁華街に発展します。

弁次郎フミが茶店を開いたころは、「1坪50銭やるからもろてくれ」とまで言われた土地の価格は、坪当たり3百~5百円にはねあがりました。天才俄師(にわかし)鶴屋団十郎は千日前を気に入り、「改良座」という小屋を設け、弟子の団九郎と俄(即興のパントタイム)を演じますが、これが大いに受けて、やがて上方喜劇の渕源となる曾我廼家(そがのや)芝居が誕生します。

明治中期 千日前絵図

川上音二郎もそうです。書生芝居と称して明治政府を諷刺するお笑い劇を上演しますが、芝居下手の音二郎、誰も笑いません。ヤケになった音二郎が勝手に節をつけた奇妙な歌をどなったのが、あの一世を風靡(ふうび)したオッペケペーです。千日前は大阪のお笑い芸の故郷でもあります。

「父ちゃん。ちっとは働け。母ちゃん毎日泣いてるやんか」
と食ってかかり、父弁次郎の目をさまさせたあのころ小学生だった長男の徳次郎は、大変な秀才でした。あんた外国語やれ、これからは英語やと母フミに勧められ、大阪英学校(京都大学の前身)に入学しますが、ここでも幣原(しではら)喜重郎と首席を争ったほどです。敗戦直後総理大臣になり、日本を救ったあの天才的外交官喜重郎とですよ。

しかし無類の親孝行者の徳次郎は、外交官にはなりませんでした。外国行ったら母ちゃんかわいそうやと行政畑の役人になり、税務や警察関係でも活躍しています。
明治43年(1910)夫の弁次郎が73歳で病没すると、妻のフミも興行の表舞台から姿を消してしまいます。そしてそのフミも、昭和4年(1929)92歳の当時としては珍しい長寿の生涯を閉じました。ふしぎなことに母の葬儀万端をとりしきった徳次郎は、葬儀の翌日、突然心臓マヒで急逝します。享年68。

「あんなに親思いの息子さんや。母ちゃんひとりで淋しいやろ。わし、ついていったあげる」
となったにちがいないと世間は噂しました。

最近ご子孫の奥田幸次郎氏の自宅から、柳行李いっぱい入った資料が発見され、大阪歴史博物館に寄贈、調査研究が進んでいます。(終わり)