わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月21日造幣局の人たち(一)

大阪の文明開化は、造幣局(当時は造幣寮・大阪市北区天満1丁目)設立に始まります。同局には天才としか言えない優秀な技師たちが集まりました。
明治元年(1868)川崎御蔵(飢饉用に備蓄した幕府の米蔵)の跡地(現在地)に、明治新政府は100万両もの大金をつぎこみ、貨幣鋳造工場の建設にかかります。国家財政は火の車、まさに威信を賭けた大英断です。
当時は金・銀・銅3種の貨幣が流通し、さらに各藩は藩札を乱発、政府も太政官札を大量に発行して金策に狂奔。これらの贋札も入り乱れ、おまけにドルなども通用したから経済界は大混乱。各国の公使や領事は通貨の統一もできぬ国との取引きはあり得ない、貿易はいっさいやめじゃと背を向けるありさまでした。

そのころ政府高官の大蔵大輔(大蔵大臣)大隈重信は、京都三条金座(金貨鋳造・発行所)主任技師久世治作から「1両小判の金含有率を分析したところ、世界の相場からみて3両2分にあたる。海外に流出すると国家の大損失です」との忠告を受け、とびあがります。さっそく後藤象二郎五代才助らの経済通と相談し、ここはいかなる困難があろうとも新貨幣を発行して通貨制度を改正するのが政府の急務だ、そのためには造幣局工場を建設しようと総裁(首相)有栖川宮熾仁親王に献策しました。
久世治作(生没年不詳)は元大垣藩士。本草学者飯沼欲斎の弟子で、薬学・化学を学ぶかたわら、ダゲレオタイプ(銀版写真)を独学で研究。西洋の化学技術に驚嘆し、まず語学を身につけようと緒方良庵(洪庵の高弟)について苦学精励。原書が読めるようになると片端から乱読。当時最新の西洋文明をとり入れていた三条金座が、頭を下げて迎えたほどの優秀な技術者でした。
重信が新貨幣制度の刷新を求めると、治作は待ってましたとばかりこう提案します。

①どこの国でも10進法だ。しかるにわが国では4朱で1分、4分で1両という奇妙な4進法をとっている。これでは世界の物笑いになる。早急に10進法に改めるべし。
②貨幣の形が長方形か楕円形になっているのはおかしい。西洋では円だ。円にせよ。

なるほど、もっともだと合点した重信は、閣議にはかると、10進法はすぐきまりますが、形になると従来のイメージが強い。議論百出のあげく、楕円形と矩形、それに正方形が作りやすいとなります。治作は怒りました。(続く)

造幣局の人たち(二)

明治元年(1868)新政府は諸外国から笑われた貨幣制度の改革に着手し、それまでの4進法を10進法に改めますが、新貨幣の形については議論百出、楕円形と矩形、それに正方形がきまりかけます。怒った京都三条金座の技師久世治作は、政府高官たちの前に西洋の硬貨をザラザラと投げだし、
「各国では元首や偉人の肖像が入っている。丸い顔は丸い形に似合うのが当然だ」
と叫びます。庇護者の大蔵大臣大隈重信も角形は使ううちに隅が欠けて醜くなると主張したあと、親指と人差指でマルを作り、
「な、カネ貸してとはいいにくい。こうやれば誰でも分かる。ま、これと同じだ」
と、今度は小指を立ててみせました。一同大笑いし円形となり、ちなんで単位は円にきまります。なお円の10分の1「銭(泉)」は中国の鍬形をしたもっとも安い貨幣から借り、銭の10分の1「厘」は、これも中国の1の100分の1のことで、最微量を意味する漢字です。

翌明治2年4月、政府は造幣頭(局長)に井上馨を任命、は長崎の貿易商グラバーに頼んで6万両もの大金で貨幣製造機を購入します。彼は井上勝伊藤博文らとロンドンに留学し、西洋の文化と科学に驚嘆して帰国後、攘夷は無理だ、まず頑迷な幕府を倒さねばとイギリスから武器を買いつけ、高杉晋作の奇兵隊に加わり、維新戦争で活躍した男です。あちこち物色したあと旧幕府の米蔵川崎御蔵(大阪市中央区天満1丁目)の跡地に、イギリス式最新貨幣鋳造所の建設に着手します。相棒はむろん久世治作です。

2人はレンガ建築のベテラン英人ウォートルスを主任技師に招き、日本では前代未聞のレンガ工場を頼みました。ところが人手が足らぬ。第一大工や左官、トビ職たちは西洋建築には不慣れでオロオロするばかり。工事はさっぱりはかどらず、おまけに同年11月、仮設鍛冶場から出火し、土木司・鉄山司など工事を指揮する大事な役所が全焼します。このとき猛火のなかにとびこみ、設計図など重要な資料類を運びだしたのが、当時71歳の老人斎藤弥九郎でした。北辰一刀流千葉周作、鏡新明智流桃井春蔵と並び、江戸の三剣豪と言われた神道無念流の達人弥九郎です。
彼は治安が悪く官界にも贈収賄が横行していた大阪に、にらみをきかすため明治政府の懇望で、造幣局権頭(局長代理)に招かれ、来阪したばかり。頭から水をかぶり止める間もあらばこそ、猛火の中に飛び込みました。(続く)

造幣局の人たち(三)

明治2年(1869)11月、建設中の造幣局建物の司令塔土木司・鉄山司が失火で炎上したとき、白髪をふり乱した老人が猛火の渦にとびこみ、設計図はじめ重要書類を山のようにかかえ「ぼやぼやするな。運べ!」と火だるまになりながら戻ってきました。江戸三剣豪のひとり71歳の斎藤弥九郎です。

役人から作業員までその鬼の形相にふるいたち、必死になって搬出にあたり、建設現場は全焼したものの辛うじて図面等は無事でした。もし弥九郎がいなかったら、造幣局は画餅に帰していたかも知れません。

しかし弥九郎は全身に大やけどを負い、同4年73歳で死亡しました。臨終にかけつけた造幣頭(局長)井上馨は、抱きついてオイオイ泣いたと伝えます。高杉晋作・品川弥二郎・桂小五郎ら、明治維新を背負った人傑は、すべて弥九郎の門下です。
不運はまだまだ重なる。建築資材を失った馨は、イギリスに援助を求め、なんとか買い付けたがこれを積んだ汽船がホンコン沖で沈没。さすがのも火事と合わせて責任をとらされ辞職、後任に井上勝(野村弥吉)が就任します。

伊藤博文らとロンドンに渡った元長州脱藩藩士で、鉱山開発や鉄道敷設工事を学んだ優秀な技師です(のちに大阪に汽車製造会社を設立。交通・運輸面の恩人)。さっそく技師長に英国人キンドルを招き、大阪中の石工を集めて再開。昼夜兼行の突貫工事で明治4年2月、日本初の西洋式建築造幣局が竣工します。総工費55万両。同月15日の祝賀式には右大臣三条実美大隈重信、イギリス、フランスの公使をはじめ、内外の高官3百数十人が並び、神戸や横浜から集めた外国人コックが腕を競い、一人前15円もの超豪華料理が卓にあふれ、造幣局権頭(局長代理)久世治作お手製の花火がポンポン上がり、側を流れる大川を彩って誰もが夢心持になりました。
治作は前に申したように、新貨幣の形を矩形、正方形など角型案が多いなかで「西洋では元首や偉人の肖像が多い。人物の顔は円のほうがいい」と主張し、円形に定めた男です。元首なら天皇だ、明治天皇様がいいと誰かが言うと、このバカ、そんな恐れ多いことができるかとふたたびもめだしたとき、彼は、
「陛下のお顔を竜顔と申します。竜の図柄ならいかがでしょう」
と知恵をだし、誰もが納得、新貨幣第1号20円金貨の図案は「竜」にきまりました。(続く)

造幣局の人たち(四)

明治4年(1871)2月、日本初の西洋式建築造幣局が竣工すると、主任技師久世治作は、記念硬貨第1号超豪華20円金貨のデザインを「竜」に定め、天才彫金師加納夏雄に制作を依頼します。
夏雄は文政11年(1828)京都生まれ。絵画に才能があり円山派の画家中島来章に学びますが、来章からお前は指先が器用だ、絵より彫金にむいておると大月派の池田孝寿に紹介され、25歳で早くも京では指折りの名手になりました。頼まれたときは41歳、強情で超偏屈な性格もあってそっぽを向くが、
「造幣局ではすべて西洋人が牛耳っている。科学ではかなわぬが、自分は優秀な日本の伝統芸術を貨幣製造に生かしたい。そのためにはキミの力が必要だ。な、外国人に負けてたまるか」
とくどかれ、ついに承知します。

少年のころ夏雄は勤皇派の学者森田節斎に漢学を習ったことがあり、人一倍負けてたまるかの気概の持主でした。さっそく水垢離をとって心身を浄め、数十枚のデッサンを描きます。治作がみんなと相談するから候補の数枚を見せてほしいと頼むと、ピシャリと断られました。
「気の散ることは嫌だ。人の意見などぜったいに聞かない。1枚だけ作ります」
それからの夏雄は寝食も忘れて作業場に籠り、やっと20円金貨の原型を指先1本で彫りあげます。直径3・52㎝、重さ33・3g、表は竜、裏は旭日を中央に菊花と菊紋・桐紋を配し、錦の御旗まで加わったデザインに、誰もが目をむきます。貨幣というより超一流の芸術彫金でした。

それでも西洋かぶれの政府高官は、これを見本にイギリスに送り、金属の原板を作らせよと命じます。話を聞いた造幣局建設主任ウォートルスは怒りだし、
「バカなことをするな。日本人の指先は世界一だ。誰がナツオに及ぼうぞ」
とどなりつけます。ウォートルスはあの銀座赤レンガ街を建築した有名な技師で、驚くほどの高給をとり、プライドが高くすぐに日本人を小馬鹿にしていた男です。その男がこれほども夏雄をほめたたえたのです。
結局夏雄は金属原板などもひとりでやりとげるが、この金貨は明治10年に改鋳発行されたものも含め、たったの29枚しか現存せず、今なら一枚何百万円するか見当もつかない超貴重品だそうです。テレビのなんとか鑑定団なら、いくらに評価するでしょうか。(続く)

造幣局の人たち(五)

日本初の近代貨幣第1号超豪華20円金貨を制作した造幣局技師加納夏雄の日常は、無口で外出や遊興を好まず、妻や子たちを花見や芝居見物にだしたあと、帰ってくるころに風呂をわかし、やあお帰りと迎えてやり、笑顔を見てひそかに楽しんだと言われます。川口陟(のぼる)『加納夏雄伝』に、
「起居すこぶる謹厳。身を持することすこぶる倹素で、往々にして誤解を受ける。毎日弁当さげてくるので嘲笑されたが、その弁当のおかずはきまって目刺だ。しかも食後かならず目刺の頭の骨を机のひきだしに納めるから、嘲笑は悪罵に変わった。実はこの骨は彫金室で錆付け薬の中に、投じられていたのである」
と記されています。造幣局構内の「造幣博物館」に、今も夏雄「新貨幣図」「試作手彫貨幣」が飾られているので、ぜひご覧ください。試作貨幣は一円金貨の試作品ですが、夏雄の天才的技量と職人気質がひしひしと伝わってきます。

なお彼は明治8年(1875)帝室技芸員になり上京。同26年明治天皇の佩刀(はいとう)製作を命じられ、3年がかりで作りあげ、見事なできばえは誰からも絶賛されています。東京美術学校(東京芸術大学)教授も兼務。内外展覧会に出品して受賞すること数えきれず、鑑定・審査の重鎮でもありました。弟子に香川勝広・増田友雄・池田隆雄・中川義実ら、斯界(しかい)の大家も多い。明治31年(1898)1月70歳没、東京芸大に米原雲海作の加納夏雄銅像が建てられており、眺めるだけで頭が下がります。

しかし貨幣製造は、スムーズには進行しません。まず、造幣局権頭(局長代理)久世治作と鋳造技師長キンドルとの衝突です。キンドルは造幣局頭(局長)井上勝が、三顧の礼でイギリスから招いた優秀な技師だが、横柄・尊大な男でした。着任早々日本人の異相に眉をひそめ、

①丁髷まかりならぬ。すぐ断髪すべし。
②腰の大小不要。
③長袖(着物のこと)は危険につき着用禁止。洋服にせよ。
と厳命し、違反者は即刻解雇といいわたします。傲慢な奴や、キンドルこそ追いだせと騒ぐ職員たちをなんとか押さえた治作は、範を示そうとまっさきに髷を落とします。夫の頭を見て妻は夜通し泣いたそうです。
だがそれぐらいでは収まりません。キンドルはわがまま勝手、無類のお天気屋でした。(続く)

造幣局の人たち(六)

造幣局貨幣鋳造技師長英国人キンドルと、日本人職員との対立は、日増しに激しくなります。キンドルは驚くほどの高給をとるくせに、すぐ休暇をとって物見遊山にでかける。気が向かないと肝心のことも教えない。職員たちを大声で罵り、バカ者呼ばわりをする。感情の起伏が激しくお天気屋、えこひいきの名人とくるから、不平不満は爆発寸前です。
「な、口惜しかったら腕をあげよう。我々だけで作れるまでの辛抱だ」
技術習得までは目をつぶれとなだめていた権頭(局長代理)久世治作も、ついにがまんができず、明治9年(1876)先頭に立ってキンドル追放運動にのりだします。風俗・習慣の相違もあったでしょうが、キンドルは他の外国人にも嫌われており、感情的対立だけではなかったようです。

政府筋はあわてて治作の説得にのりだし、嫌がらせや脅しまでするが効果はない。キンドル自身も信頼していた治作の裏切りだと激怒し、造幣局からとびだしたため、紛争はなんとか落着します。しかし今度は治作が嫌われた。彼は陋習に縛られた諸制度の改革・近代化を強引性急に進めすぎたのと、キンドルなきあとの技術陣に、何度となく無理な注文を要求して浮いてしまい、おまけに頑固一徹、誰の言うことも聞かなかったから、やがて罷免のような形で身を引きました。しかし彼こそ造幣局創立時代の最大の功労者です。

技術といえば大野規周も忘れ難い。規周は文久2年(1862)幕府派遣の留学生としてオランダに渡り、精密機械・器具の製造技術を徹底的に学びます。ときに42歳、大変な晩学ですが、ヨーロッパの近代文明に驚嘆すると同時に、「器用さなら日本人は西洋人に負けるはずはない」と闘争心をかきたて、幕命にさからって6年間も滞在します。
帰国したときは幕府が倒れ、すでに新政府が発足しており、目を回して今浦島の気分になりますが、政府は彼をひっぱりだし造幣局の技師を委嘱します。キンドルはじめ外国人技師たちは、日本人技師の知識と技量の低さにあきれ、なにかにつけて高飛車に出て嘲笑するが、規周にだけは一目置きます。まず流暢な語学力に驚き、次々に制作する器具類の工夫に感心。温度計・羅針盤・測量器具・地金の量を測る器械天秤等は、すべて西洋製でしたが、彼は自分流に改めて作り直し、性能も優れしかも安価。キンドルでさえ「オーノは東洋の手品師だ」と感嘆します。(続く)

造幣局の人たち(七)

科学知識の乏しい日本人を小馬鹿にした傲慢な造幣局貨幣鋳造技師長英国人キンドルでさえ、「オーノは東洋の手品師だ」と感嘆した技師大野規周には、ひとつだけ我慢のできないことがありました。
それは日本の風習が時間にルーズだったことです。とくに大阪では「大阪時間」ということばがあり、会合時間の1時間遅れはあたりまえ。むしろ遅れて行くのが遠慮深い人だとほめられるありさまでした。当然出退勤時間も一定しない。オランダ帰りの規周には、これが最大の不満のタネなのです。
明治4年(1871)2月19日午前9時ジャスト、突然カランカランと威勢のいい音が流れる。局内にいた職員も、出勤途中の職員もなんじゃあの音はと見上げると、本館屋上に置かれた大時計が鳴っています。高さ2㍍の櫓に直径1㍍の西洋文字盤、分銅の重みで時を刻む仕掛けになっており、自動的にベルが作動したのです。9時の始業、12時の休憩、1時の再開。5時の退勤にかならず鳴り響き、従業員たちも自然に時間を厳守するようになりました。

この大時計は構内の「造幣博物館」に保存(ほかに彼の製作した天秤・羅針盤・温度計等も)され、今も正確に時を刻んでいます。
規周はかように先進的な西洋的理化学者でしたが、保守的な性格でもありました。キンドルの丁髷廃止令で、造幣権頭(局長代理)久世治作でさえも断髪したのに規周は、
「丁髷は日本人の魂だ。魂が無ければ良心的な和製器具のできるはずはない」
と言い放ち、いかにキンドル治作が説得しても聞き入れません。古風な律義者で冗舌を嫌い、つきあい下手だが親切で、秘法も惜しまず部下たちに教え、造幣局の発展に大きく貢献しました。明治19年(1886)66歳で他界。長男規好も同局技師を勤めています。
桜宮(都島区中野1丁目)の境内に「大野規周君記念碑」があり、刻まれた菊池純の撰文で、彼の業績を知ることができます。そのなかに
「明治6年、明治天皇に天球儀を作って献上したところ、天皇はその精緻巧妙さに感嘆され、金筐(黄金製の丸い箱)を下賜された」
との内容があります。
明治13年12月の読売新聞に、「大野規周氏天満川崎樋ノ口に、懐中電灯の製造所建設を発起」とあったのが、目につきました。(続く)

造幣局の人たち(八)

造幣局といえば、かならず合わせて紹介される重要文化財「泉布観」北区天満1丁目)にふれておきます。
明治4年(1871)局の応接所として誕生した建物で、局と同じく英国人技師ウォートルスの設計。ルネサンス式レンガ石造2階建。16本の丸柱はすべて花崗岩1本もの。イギリス製カットグラスを使用し、コロニアル様式の大阪最古の洋風建築です。
翌5年明治天皇が行幸「泉布観」と命名されます。泉布とは中国の貨幣のこと。さすが天皇だ、ガクがあると感心したら、実はお付きを心斎橋の三木書店に走らせ、司馬遷『史記』から泉布の文字をみつけてこさせたそうです。観は館と同語。天皇はこのときまだ20歳。工場視察のおり大天秤の16キロもある分銅を、面白がって軽々と振り回された、との逸話が残っています。

また天皇は大の相撲好き。大阪代表と薩摩代表の力自慢を集めて50番の相撲をとらせ、大阪方が勝ったので西郷どんが口惜しがったそうです。明治26年から2年間、第4師団長北白川宮能久親王が泉布観を宿舎として使用するなど、皇族や外国要人たちも数多く訪れています。毎年3月下旬に一般公開されるので、ぜひお訪ねください。
造幣局は貨幣の製造だけではない。地金分析や精製に硫酸が必要なので「硫酸製造所」が付設され、コークスや苛性ソーダも作られます。この過程で生じた石炭ガスを利用して、明治5年4月には720基のガス燈が並び、薄暮になるといっせいに点火され「大阪の蜃気楼」とよばれて、大勢の見物人が押し寄せました。英語・物理学・化学を教える学問所「日進学舎」も誕生し、一般市民にも開放、前回紹介した大野規周らが教壇に立ち、多くの学者の卵を育てています。
造幣局は大阪近代企業の生みの親とも言えます。週勤務6日制、土曜日は半ドン、労働時間は1日7時間、退職金に年金制度、出退勤時間の厳守、残業手当ての支給、これらはいずれも造幣局が定めた労働条件が出発点です。事務方も和紙とじ大福帳や、筆・墨などの筆記用具は禁止。インクとペンによる複式簿記に改訂され、万事丼勘定だった大阪の商工業者たちの目をさまさせました。
近年局内の「造幣博物館」が、リニューアルオープン。日本や諸外国の貨幣・勲章、金属工芸品など4400点、その超豪華な収蔵内容に、誰もが驚嘆することでしょう。(終わり)