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2014年2月19日浅井 薫(一)

浅井薫(かおる)て誰?と、どなたも首をかしげるでしょう。宝塚歌劇が誕生したときのスター、男役第1号の高峰妙子の本名です。
明治45年(1912)私鉄箕面有馬電軌(現・阪急電車箕面・宝塚線)を開通させた社長小林一三は、営業成績をあげるため、終点の宝塚に温泉と動物園、それにプールをつけた「宝塚パラダイス」を設けますが、乗客は今一つ伸びず、赤字でした。

小林一三

なんとかいいアイデアはないかと頭をひねった一三は、ある日評判を聞いて北浜の三越呉服店を訪ねます。三越では客寄せのためかわいい少年たちを集め、制服を着せ、「三越少年音楽隊」と名づけ、ナマ演奏をさせていました。
「うまいで。クラシックから童謡までやりよる。タダで聴ける」
とうわさになり、買物客が倍加します。
若いころ一三は、いっぱしの文学青年で、探偵小説で入選したこともあります。芸能にも関心があり、何回も三越に通ううち、
「俺もやったろ。こっちは女の子でいこ」
と、ポンとひざをたたきます。これが宝塚少女歌劇の起こりです。
役員会議で一三は猛反対されます。赤字が増えるだけやない、芝居をやると男女の風紀が乱れると言うのです。たしかに歌舞伎が男ばかりなのは、徳川幕府が風紀が乱れるとして、女をしめだしたからです。
ところが一三は、
「なに言うとる。女の子だけじゃ。男の役は女にやらせる」
と役員たちを押さえつけ、紙に大きく「清く正しく美しく」と書いて、壁にはりました。このモットーは今も生きていますね。
大正2年(1913)一三は、歌と芝居に才能のある少女たちの、募集を始めます。予想以上に多くの応募者が集まりますが、そのなかに浅井薫がまじっていました。
は明治33年(1900)大阪の東区(現中央区)に生まれました。父は大阪府警玉造署に勤務した警官浅井寛竜で、その次女です。2男3女の子供がおり、母は6番目の子を産むとき大変な難産で、母子ともに死亡します。父寛竜は5人の子を男手ひとつで育てますが、幸い長女がしっかり者で母親役を務め、父をよく助けます。次女のは天性明朗でお茶目。すぐふざけていつも家族たちを笑わせ、父もとりわけかわいがっていました。そのが宝塚を受けたいと言いだしたのです。(続く)