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2014年2月19日人見 絹枝(七)

昭和6年(1931)4月、絹枝は肋膜炎の診断で阪大病院に入院します。初め彼女はタカをくくっていました。ベルギーで2度と走るまいと誓った800mを懇望されたとき、今とよく似た症状がありましたが、注射を打って出場、かえって良くなった経験があったからです。

しかし今度はそうはいかぬ。5月の末にいったん小康をとりも しますが、乾酪(かんらく)変性肺炎(肺の組織がチーズのように凝固する病気)を併発、7月29日から呼吸困難となり、8月2日午後0時25分永眠しました。24歳の若さです。ふしぎなことにこの日は、オリンピック800mでラートケと死闘を演じた同じ日でした。無理解と偏見に満ちた女子スポーツ界を、満身創痍(そうい)になりながら走り抜けたあまりにも痛ましい最期です。

人見絹枝

棺(ひつぎ)には生前愛玩していた犬張子(いぬはりこ)と、奈良人形や御所人形など若い娘さん好みの品々が詰められ、薄化粧した表情はかわいらしく、誰もが涙をこぼします。
「もし一生スポーツをすることを許し、先生のおメガネにかなう方がおられたら、ぜひ紹介してください」
これは、毎日新聞運動部長でスポーツ医学の権威、木下東作博士にもらした絹枝の言葉です。気丈夫な彼女も東作の前では甘えるように、よく愚痴をこぼしました。あるとき、
「先生、また女ですかとからかわれました」
とベソをかいたとき、東作は、
「じゃあ絹枝くん、結婚しなさいよ。キミと争ったラートケはね、あのとき2人のお子さんのママだったよ」
と話します「もし一生スポーツを…」はそのとき絹枝が答えた返事です。
「私も子供を産んでから、もう一度オリンピックに出たい。ママ、しっかり…と応援してもらいたい」
ある雑誌のインタビューで彼女はこうも語っていますが、その夢は実現しませんでした。

生まれ故郷の岡山市の「岡山県営競技場」に、絹枝の銅像があります。昭和37年(1962)の国体開催記念に造立されたもので、両手を高くあげてまさにゴールのテープを切ろうとする勇姿を型どっています。

またチェコのプラハにある「オルシャン国立墓地」のなかにも、絹枝の早すぎる死を悲しんで、記念碑が設けられているそうです。(終わり)