わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月5日木文字 かめ (二)

明治17年(1884)法善寺横丁に、こととかめ母娘の出したぜんざい屋「お福」は、招き猫がわりに置いたおたやん(お多福人形のこと)と1杯のぜんざいを2椀に分けて出した工夫が当たり、繁盛します。
もちろん味や材料にも工夫をこらし、餅は銅貨ぐらいの大きさですが、有名な道明寺産の干飯(ほしい)で作ったものしか用いません。甘いぜんざいにこのサクリとくる歯ごたえが、実によく合いました。
店を出してから10年目に、父の重兵衛が、20年目に母ことが世を去ります。すでに30代に入っていたかめは、ひたすら店を守りました。色白で愛敬者のかめは、どんどん繁華街化していくミナミでも、常に美人番付の大関の地位にあったといわれます。
「かめちゃん、いるるか」「モシモシかめよ、かめちゃんよ」
ひいき客はこういいながら、のれんをくぐって入ってきます。迎えるかめとおたやんの笑顔は、いっぺんに浮世の苦労をふっとばします。聞き上手の笑い下戸、かめと話す誰もがほのぼのした気分になりました。

おたやん「お福さん」

めおとぜんざいの値段は、創業のころ1銭、大正初年で5銭、和に入って7銭、戦争の始まるときは10銭で、これはすうどん1杯の価格と同じです。薄利多売がかめの商法でした。
時が流れるにつれて、かめの横顔にどこか淋しげな影が漂います。
「これが娘でんね」
とおたやんを撫でる姿に同情した回りが、シナという養女をもたせ、シナに婿をとって孫の重吉が生まれると、こおどりして喜びました。
昭和13年(1938)重吉は出征し、同19年店は強制疎開を命じられます。
「お国のためやったら…」
かめは渋る他店にさきがけ店をたたみ、藤井寺へ去りますが、半年後、ミナミは大空襲で火の海となり、なにもかも焼失しました。
敗戦後、ミナミに再び春がきて、法善寺横丁はめざましく復興していきます。
「めおとぜんざい、やりなはらんか」
昔なじみの客たちにいわれると、
「へえー、重吉が帰ってきたらな」
とニッコリしました。実は重吉は同19年6月に戦死したのを知らなかったのです。同25年、かめは78歳で永眠しています。
(終わり)