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2014年2月20日心斎橋の人たち(四)

心斎橋商店街の世話役たちに頼まれて、心斎橋架けかえ工事に着手した偏屈な建築業親方小西荘次郎は、名人気質丸出しで寝食忘れて難工事に挑み、凝りに凝ります。四国の今治沖の大島で良質の花崗(かこう)岩を見つけると、言い値で大量に買いこみ、勾欄(こうらん)に円形を彫り中をくり抜き、めだたない部分にも細密なデザインを施し、橋脚の水中にかくれる部分にまで飾りを入れる始末。気に入らないとすぐたたき壊す。たちまち予算を使いはたしました。
1年ほど経った明治42年(1909)4月、何度も借金にくる荘次郎に音をあげた庇護者で金主の高松屋主人まで、
「あんた、芸術家のつもりか。橋を作ってるんやぞ。いいかげんにせんか」

と忠告しますが、荘次郎は聞く耳を持たぬ。ついにもうつきあいきれまへん、絶交や…と高松屋は、ピシャリと戸を閉めました。

荘次郎の「心斎橋」

パトロンに逃げられた荘次郎は、商店街を廻って援助を頼みますが、せっかく見事に完成した部分も、こらあかんとハンマーでぶち壊す姿にあきれ、
「日本一の名橋にしてや。ゼニはなんぼでも集めるさかい」
とまで言った世話人たちも、知らんふりをしてしまいます。

あともうひと息や…血相変えた荘次郎は歯を食いしばり、自分の店も土地も抵当に入れ工事を続けますが、ついに仕上げの敷石作業の段階でギブアップしました。

「もうあかん。わいの負けや」
目頭をぬぐった荘次郎は、作業衣姿のまま大阪府庁を訪れ、とどこおっていた材料・工事費の支払いと、残った整備工事を他業者に委託するよう頼み、
「仕上げだけは、かならずわいとこの職人を使うてな」
と、つけ加えます。ときに明治42年10月4日のことでした。一文なしになった荘次郎のその後の消息については、資料がありません。

同年11月23日、純白の眼鏡橋「心斎橋」は姿を現します。総工費7万2千2百余円。欄干にガス燈4本がともり、夕暮れになるとまるで荘次郎の涙のようににじんで見え、実に気品のある橋でした。

この心斎橋も昭和37年(1962)長堀川の埋め立て工事でとり除かれます。今、あの豪華な地下街クリスタ長堀を歩く人たちは、小西荘次郎の名をご存知でしょうか。(終わり)