わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月20日淀屋の人たち(四)

豪商「淀屋」の五代主人に淀屋広当(一般には淀屋辰五郎)がわずか10歳でなったとき、淀屋は長年の放漫経営と代々主人の遊蕩(ゆうとう)やぜいたくすぎる暮らしぶり、それに諸大名への貸金約20億両がこげつき、まさに倒産寸前でした。

淀屋の碑

ところがもっと甘い汁を吸おうと番頭・手代どもは、まだ子どもの広当に遊所通いを教えたのです。広当は新町の遊女吾妻(あづま)に夢中になり、千両で身受けするから金策せよと手代に命じます。手代はすぐに返すつもりで知人の薬種商小西源右衛門の名を無断で使い、両替商天王寺五兵衛から2千両ほど借金し用立てますが運悪く、たまたまある会合で源右衛門と顔をつき合わせた五兵衛は、お前さん金持ちやのに、なんでわしに借金するんやとなにげなく尋ねたことから発覚、手代は謀判(ぼうはん=印判の偽造。当時は殺人以上の重罪)で獄門(ごくもん=首を落とされ、さらされる刑罰)、なにも知らなかった広当は所払い、淀屋は全財産を幕府に没収されてお取り潰しになります。宝永2年(1705)のできごとで、広当はまだ19歳の若者でした。まさに「驕れる者久しからず、春の夜の夢のごとし」のありさまで、栄華をきわめた豪商淀屋は、ハンコひとつで消滅したのです。

別の説もあります。当時の社会事件を記した『皇都午睡』という古書に、 「辰五郎(広当)の遊所通いを心配した母が、親しい老医師に説諭してほしいと頼んだ。老医師忠告で辰五郎も目がさめたので、喜んだ母は入手した高価な茶壷を老医師に贈る。老医師は茶の心得がなく商人に売りわたしたところ奉行が聞きつけ、これはさる宮家が盗まれた秘蔵の名器だ、盗品売買とは不届き千万なりといいがかりをつけ、淀屋はお取り潰しになった。これが真相だ」との内容が出ています。

ほかにもお取り潰しになった理由についての説は、いくつかありますが、おそらく莫大な借金を返済できなくなった諸大名たちが結束して、とるにたらぬ罪をでっちあげ、幕府に働きかけて淀屋を潰し、借金の棒引きを図ったたくらみが、本当の原因だったと思われます。もちろん物品の流通機構が整備され、諸藩の蔵米・蔵物の斡旋(あっせん)を独占した淀屋の商法の近代化がおくれ、経営組織が旧態依然たるありさまだったことが、致命傷になったと考えます。 (続く)