わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月20日奥田弁次郎・フミ(六)

明治30年(1897)弁次郎フミ夫婦は渡欧し、チャネリー曲馬団を招いて千日前で興行する企画を、実行します。この曲馬団は本国では無名の一座でしたが、当時の日本では誰もそんなことは知りません。

「ヨーロッパから超一流のサーカスがやってくる。日本初公開やぞ!」
弁次郎が得意の大ぶろしきを広げてしゃべりまくりますから、みんなその気になる。第一入場料が格安です。口車にのせられて、ばあさんまで死に土産に見とことやってきて、連日大入り満員となります。

また曲馬団にしても日本の実情にうとい。夫婦の言葉を真(ま)に受けて、
「ジャパンの大プロモーターベン・フミ興行会社の招聘(しょうへい)だ」
と信じ込んでしまいます。

フミ(左)弁次郎像

フミはそんな彼らを、
「あんたらの芸は世界に通用する。目の肥えた私の言うことやさかい、まちがいおまへん。
さ、きばりなはれ」
とおだてあげる。ドサ廻りの苦労を重ねただけに、こんなお世辞は初めてです。一座は大感激、汗水たらして熱演します。
「男も女も年寄りも関係あらへん。芸歴なんかどうでもええ。いちばん客をわかした芸人さんに、
ギャラをはずみまっせ」
とのフミの方針も異国の人たちのハートをつかみ、興行は大当たりで幕となります。

フミは人情味の厚い女性でした。尽くしてくれた芸人さんの面倒をとことんみます。酒や道楽に金を捨てる芸人には、
「あんた、金はためるもんや。ためたらかならず子を生む。生むようになってから使いなはれ」
と、母親代わりになって諭します。

こんな話もあります。氷雨の降る真冬の夜ふけ、フミの家の軒先にずぶぬれになった若い男女が雨宿りをしているのに気づきました。
「どないした。ま、入りなはれ」
と招き入れ、火鉢にあたらせ熱い茶をだしますと、だまってとんがっていた二人はわっと泣きだし、和歌山の田舎から駆落ちし、あてもなく大阪へ流れ着いたと口を開きます。
フミも親の猛反対を押しきって18歳のとき、弁次郎と駆落ちしたのが人生の始まりです。

「しばらくうちにいなはれ。なんとかしてあげるさかい」
と言いながら、あたたかい客用ふとんを押入れから出し、敷いてあげました。 (続く)