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2014年2月20日奥田弁次郎・フミ(五)

千日前墓地跡に茶店と寄席(よせ)小屋を出した弁次郎フミ夫婦は、人集めのため夜店を開く計画を立てます。
「な、あかりを持つさかい、あんた、千日前に夜店置かへんか」

フミは夫のかつての香具師(やし)仲間に、声をかけて廻りました。当時の大阪では夜店を出すのは船場のような一等地に限られます。しかしあかり(灯油代)を負担してもらえるのなら、話は別です。

「弁のおかみさんの頼みや。聞いたろやないか」
男気のある夜店を仕切る親分が、重い腰をあげてくれます。こうして刑場もあったお化けが出ると言われた千日前墓地跡にも、人々が集まるようになってきます。今では不夜城のような千日前も、120年ほど前はこうでした。
フミは住居もかねた茶店の框(かまち 玄関のあがりぐち)に、たらいのように大きいおひつを置き、茶碗と漬物皿を並べます。夫も自分も使用人も芸能人も、いつでも手のあいたときに来て勝手に好きなだけ食べればよい仕組みです。たまにはめざしやみそ汁、卵焼きのつくときもあります。

「へえー、ご寮はん。今日はごきげんやな」
と誰もが喜んで、腹いっぱいかきこみました。食器はそのまま水を張った樽にほうりこみ、すぐ仕事場にとんでいけるのが、この工夫でした。

明治中期 千日前絵図

こうしてかなりのゼニをためたフミに、ある日弁次郎が声をかけます。
「なあ、もっと大きいことやれへんか」
なるほど元大ぼら吹きだけあって口は達者、立て板に水とばかりしゃべりまくる内容は、まことに気宇壮大。まるで夢のような話ですが、いつもは寝言いわんときと背中をどやすフミも、じっくり耳を傾けます。夫の目の色がちがっていたからです。

明治30年(1897)弁次郎フミは、汗と涙の結晶を持って、なんとヨーロッパからアメリカに渡ります。英語のできぬ夫婦がどこでどう交渉したかは分かりませんが、ゴーチェ団やチャネリー曲馬団などの奇術やサーカス一座を招いて、千日前で興行することに成功します。

これらの一座は、うらさびれた場末で興行する名もない芸人たちの集まりでした。しかし、情報網が今とは比較にならぬ時代です。世間は超一流の芸能集団だと思い込みます。(続く)