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2014年2月21日楯彦・八千代(五)

「八千代(美記)の墓は四天王寺(天王寺区)にある」と、諸誌にでています。しかしあそこの墓地は広い。以前何度も探し回って、やっと無縁墓群の中でみつけた彼女の墓を、掲載しておきます。 文筆家中井浩水「明治の三名妓」に、次の文があります。

「八千代は目も鼻も大きく、声は低く、日本型の美女ではない。それがあれほどの評判になったのは、光村写真館が撮った絵ハガキのおかげだ。あれは国中に広がった。いや、そうではあるまい。あの気立てと聡明さだ。芸妓としてなすべきことはなし、なしてはならぬことは絶対にしない。だがあんなに気を使っていたら、長生きできるはずはないと思っておった。気の休まるときはなかったはずだ。くつろぎ楽しむゆとりがない。早世を知って、美女なんかに生まれるものではないと、しみじみ思った」

八千代の墓

文中にある光村写真館とあるのは、島之内(中央区)出身の写真家光村利藻(神戸の豪商光村弥兵衛の子)のことです。彼は乃木将軍とロシアの司令官ステッセルとの「水師営の会見」を撮影、また今に残る明治天皇の写真も彼の手になるもので、大阪の写真芸術家の先駆者です。その利藻がほれこんで頼みこみ、やっと八千代のブロマイドを撮っています。
この時代は絵ハガキブーム。菅夫人になった八千代も、全国の人たちと絵ハガキの交換を楽しんでいます。ある日、高橋しな子さんという人から、すばらしい西洋の風景画ハガキに麗筆で、あなたのお姿を分けてくださいと記した便りが届きました。2人は生涯文通を続けますが、八千代しな子が首相や大蔵大臣を務めた、有名な政治家高橋是清の妻だということを知らなかったそうです。
話をもどします。大正13年(1924)わずか7年の結婚生活で愛妻美記に先立たれた楯彦は、涙をぬぐったあと、猛烈な勢いで浪華を題材とする絵画の制作にとりかかります。
なにしろ国学から有職故実(伝統的な儀式や風俗を研究する学問)まで、学者も及ばぬ教養のある異色の画家です。誰もが真似のできぬ独特の艶(つや)のある大和絵風の歴史・風俗画が生まれていきました。まるで美記の霊がのり移ったようなありさまです。とりわけ秩父宮(ちちぶのみや)に献上した「友を千里に訪ふ図」と、大阪城の壁画「神武天皇盾津上陸図」は、誰からも絶賛されます。(続く)