わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月21日楯彦・八千代(二)

明治27年(1894)16歳の少年菅藤太郎は、プロでも入選の難しい日本美術家協会展に応募し、作品「盲父孝養図」で協会賞を受賞します。

父の早世のため貧乏のどん底で苦学し、独力で受賞した藤太郎に感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(前大阪市初代市長)でした。
「いつでもおいで、好きなだけ勉強し」

と笑顔で誘い、入場料もタダにしてくれます。博物場は大阪唯一の美術・図書・生物・博物の綜合資料館です。藤太郎は昼も夜も入りびたり、気にいった古今東西の名画の模写を始め、さらに国文学・和歌俳諧・有識故実(ゆうそくこじつ 伝統儀式や風俗を研究する学問)なども、手当たり次第に勉学します。博物場には大勢の文化・知識人が出入りしており、こりゃたのもしい少年じゃと誰からもかわいがられ、めきめき実力をつけていきました。

現在 嵐山にある「富田屋」

明治35年菅楯彦と名を改めた彼は、陸軍幼年学校や女子実業学校から図画教師として招かれ、宇田川文海(大阪の作家)や渡辺霞亭(大衆小説家)らの新聞連載小説のさし絵も頼まれ、ようやく生活は安定します。
あの楯彦にしか描けない大和絵・浮世絵・文人画などを折衷(せっちゅう)したような独特の絵画は、よほどの知識や教養がなければ無理です。時代考証のしっかりしたさし絵は評判になりました。
とはいえ、まだまだ無名の楯彦が全国的に有名になったのは絵ではない。富田屋(とんだや)八千代との出会いです。
彼女の本名は遠藤ミキ(美記)、明治21年東大阪本庄の農家西田安次郎の4女に生まれました。10歳のとき宗右衛門町(大阪市中央区)の茶屋「加賀屋」を営む遠藤家の養女にやられ、3年後に南地(同区難波)の富田屋の座敷に出る芸者となり、美貌と利発、それに人柄のよさでめきめき売りだしました。
そのころ楯彦は富田屋主人に頼まれて、芸者衆に日本画を教えます。インテリや名士も接待する富田屋です。教養も大切だと茶華道・日舞・和歌俳句なども習わせ、とくに絵画と習字には力をいれた店でした。八千代の絵筆はずばぬけており、楯彦も目をかけます。
やがて八千代は富田屋の看板芸者となります。明治40年の「名妓評判記」という刷り物に、東京赤坂の万竜、京都祇園の千賀勇、大阪南地の八千代は、日本三名妓なりと記されているほどの超アイドルに、のぼりつめます。(続く)