わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月21日吉本 せい(六)

法善寺横丁の名物コヤ「花月」の実質オーナーになっても、せいは初めて天満に文芸館を開いたときと同様に、お茶子(客席のサービス係)になってまぎれこみ、芸人たちに、
「あんた、今日、手抜いたやろ。お客はん、ぼやいてたで」
「なにが真打ちや。あいつ、芸投げよった。あかんたれめ。もう使うてやらへん」

と、キツーイ批評をします。
芸人を発掘する才能も、たいしたものでした。

「カネかかる芸人がウマイとはかぎらん。どんな場末にもいい子がおるで。
ボヤッとしとらんと、はよ探してこい」
と、実弟で片腕の林正之助の尻をたたきます。この方針は現在の吉本興業にも受け継がれていますね。

「朝寝、朝酒、朝風呂大好き。こんな連中はあかんで」
が口ぐせのせいは人情味に厚く、病気や多くの家族をかかえて困っている芸人たちには、とりわけ親切でした。火事や水害がおこると、「ヨシモトが来ましたで」と若いもんたちを被災地に送り、男は力仕事、女は炊きだしを手伝わせます。今ならボランテイア活動です。芸能界で一番これに力を入れたのは、ヨシモトでした。

大正12年(1923)9月、関東大震災で東京が壊滅状態になったとき、せいはいちはやく正之助「毛布千枚送れ」と命じます。毛布会社の倉庫も空っぽで、やっとかき集めたのが130枚「姉ちゃんあかん。トラックが走られへん」と泣きごとを言う弟に、「フネ、船で送りなはれ」と指図しています。
ところがその5カ月後、つまり大正13年2月に、夫の吉本泰三が心臓マヒで急逝したのです。しかも場所が悪い。愛人宅での死亡でした。泰三39歳、せい35歳のときです。
「ウチが悪い。商売ばっかりして、あの人のことかまわんなんだからや」
健気にこう語ったせいは、船場のしきたりどおり、まっ白の喪服で葬儀をとりしきりました。白の喪服は一生再婚はしないとの女の決意の表れです。ウチの人お世話になったね、と葬儀が終わると浮気相手に、たっぷり入った金包みを渡したと言われます。せいの気っぷのよさをほめる声は多いのですが、こんなに尽くしても女の立場は悲しい時代でした。
さすがのせいも、すっかり落ちこんでしまいます。そんな姉を支えたのが正之助です。(続く)