わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月21日吉本 せい(四)

大正7年(1918)せいは、法善寺(中央区)にあった大阪の演芸興行を代表するコヤ「金沢亭」の買収にのりだします。
シブチンして7年がかりでためた2万円を懐に、所有者の金沢利助宅に押しかけ直接談判、仲介者をたてるのが常識の時代にです。

客足が遠のき赤字に悩んでいた利助ですが、市会議員も務めた大物の 実力者。大道芸なみの無名の新人を集めてのしあがってきたせいを嫌い、
「あきまへん。ぜったいに売りまへん」
と首を横にふります。しかしせいはあきらめず、何度も訪ねてはかきくどきます。

「あんさん。そんならお尋ねしますが、法善寺横丁がさびれてもよろしますか。水掛不動はんが泣いてまっせ。大阪ミナミの顔がやで」
法善寺横丁を誰よりも愛していた利助の胸に、グサリときたところでせいは、ポンと2万円の現金を投げだしました。
買収に成功したせいは、その足で八卦見(はっけみ=易者)に新事業が成功するかどうかを占ってもらいます。彼は長い間算木や筮竹(ぜいちく)を並べていましたが、やがて難しい顔をして、
「花と咲くか月と欠けるかお前さん、命を賭けた大勝負やとの卦(け)がでたぞ」
と言います。せいは手を打って、
「おおきに。コヤの名前がきまった。花月にしましょ」
と叫びます。これが吉本興業の有名な「南地花月」の始まりです。ときにせいは30歳、夫の泰三は34歳の若夫婦でした。

せいは花月に次々に新しいアイデアを注ぎます。表に紅白の幔幕(まんまく=横幕を張りめぐらせ、紅白の縦縞を入れたもの)を掛け、「扇風機あり」と大看板をあげます。大阪電燈会社にあんたとこも宣伝になるで…と6月から9月まで1台2円で11台借りてきたものですが、当時扇風機のある家庭はまずない。これだけでも噂になります。
高座の前には15センチほどの溝を作って電燈を入れ、芸人たちの顔がうかびあがる仕掛けも工夫する。いわゆるフットライトですね。もうひとつ有名なのが、コヤの前に掛けたのれんです。1月は紅梅、2月は白梅、3月は枝垂桜(しだれざくら)…というふうに、一年中季節にあった造花でのれんを飾ります。せいの生涯を小説化した山崎豊子の名作『花のれん』の題名は、ここからとったものです。たちまちミナミの名物になりました。(続く)