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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(三)

鉄道唱歌

 

明治31年(1898)12月28日、日本で初めての鉄道をテーマにする唱歌を作ろうと、詩人大和田建樹(当時41)、音楽家多梅稚(29)、小出版社「市田昇文館」主人市田元蔵(24)の3人は、開通したばかりの東海道本線に乗り込み、東京の新橋駅をスタートします。
売れっ子の建樹はひと晩で60枚の原稿を書きなぐり、歌会に出ればたちまち百首の短歌を速吟する早業で知られ、尾崎紅葉(大御所の作家。代表作「金色夜叉」)から「あいつはタイプライターだ。たたけばいくらでも文字が出てきよる」と唸らせたほどの男です。汽車が動きだすとすぐに「車窓日記」と書いたノートをとりだし、窓外を眺めながらスラスラと筆を走らせます。

「汽車は新橋を出でぬ 雨しめやかに降りていたり 遠くゆく船も煙に包まれて 窓辺に白し品川の海…」
このメモが一世を風靡した「鉄道唱歌」の出だし、「汽笛一声新橋を…」の原案です。
唱歌が大ヒットした原因は、建樹の格調の高い実景描写のリアリティにあります。
梅稚はほとんど目をつぶったまま。時々、横目で建樹のノートをのぞき、なにかぶつぶつつぶやくだけです。元蔵がまめまめしく弁当やお茶、果物などを差しだすなか、汽車はゴトゴトと軽快なリズムで走り、両人のインスピレーションを、ますますかきたてました。
こうして翌明治32年春、大和田建樹作詞・多梅稚作曲の「鉄道唱歌」は完成するが、肝心の版元市田昇文館が倒産寸前です。営業採算を無視して鉄道唱歌につぎこんだだけではない。日清戦争が終結し、大戦景気が一転して大不況におちいった時代で、零細企業の資金のやりくりはどこもいき詰まり、市田昇文館の店も担保に入っているありさまです。それでも元蔵「鉄道唱歌」に起死回生の夢を賭け、無理算段してやっと3千部を刊行します。
しかし弱小資本の悲しさ、宣伝力のないせいかさっぱり売れぬ。どこの書店でも野ざらしとなり「あきまへん。売れまへんで」とそっくり戻ってきました。
「ああ、えらいことしてもうた。大和田先生や多さんに、恥かかせてしもた」
としょげ返っていた元蔵を、ある日突然恰幅のいい紳士が訪ねてきます。有名な「三木楽器店」の主人三木佐助でした。捨てる神も拾う神もあったのです。(続く)