わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月25日鉄道唱歌の人たち(五)

明治32年(1899)5月、倒産寸前だった大阪の小出版社「市田昇文館」から、大和田建樹作詞、多梅稚作曲「鉄道唱歌」の版権を譲り受けた「三木楽器店」の主人三木佐助は、財力と奇抜な宣伝を生かして大々的に売りだし、歌謡史上例のない大当たりをとります。

調子に乗った佐助は、建樹梅稚のお尻をたたき、第二集「山陽・九州」第三集「東北」、第四集「北陸」第五集「関西・参宮・南海」と、わずか半年の間にこんなに刊行します。もっともタイプライターのあだ名のあった速筆の詩人建樹は、次から次と書きとばすが、慎重型の梅稚はそうはいかぬ。
「そないせかされても、曲ちゅうもんは早うはできません」
と渋り、第三集から作曲できなくなります。
やむなく佐助は、「モモタロウ」田村虎蔵「キンタロウ」納所弁次郎「婦人従軍歌」奥好義ら、人気の高い売れっ子作曲家を起用しますが誰もが見向きもせず、梅稚の曲で歌いました。それほどかつての日本には無かった軽快な、走る列車にふさわしいリズムをもつ名曲だったのです。
「鉄道唱歌」は、刷っても刷っても注文に追いつかず、どこの書店でもすぐ品切れです。歌詞は沿線の歴史・地理・風物・産物・人情などを巧みにおりこみ、七・五調の四行を一章に、第五集まで合計332章。教育効果は高いと学校や自治体も、争って求めます。会社・商店から工場、ついに政治家や高級官僚、いや、花柳界まで芸者の三味線にのって「汽笛一声新橋を…」と歌い踊るありさまです。
もちろん背景には、空前の鉄道ブームがあります。明治維新後西洋文明に圧倒されていた日本の、美と文化と国力の再発見にある…と学者たちは解説します。しかしなんといっても建樹梅稚の才能が第一だ。学者たちまでとりこになる。夏目漱石の弟子で学習院の院長安倍能成(哲学者)は、熱烈な「鉄道唱歌」のファン。宴席ではかならず歌いだし、それも始発新橋から終着神戸までやらねば、気がおさまりませんでした。
記録によれば「鉄道唱歌」は大正時代の初期までに、約2千万部を売り尽くし、収益は2百万円をこえたと言われます。マスコミが現在とはまったく比較にならぬ時代ですから、これはもうベストセラーズどころの話ではない。
まさに歌謡本としては空前絶後でした。 (続く)