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2014年2月6日林 歌子 (三)

明治25年(1892)東京神田教会の小橋勝之助・実之助兄弟と林歌子は、兄弟の故郷赤穂(兵庫県)の矢野村で、貧しくて親からほおりだされた子どもたちの救済施設「博愛社」を設立します。兄弟や歌子の考えは、
「孤児救済事業は恩恵ではない。自給自足が基本だ。働いて生きる苦しみと喜びを自覚させることが、真の自立の第一歩だ」
というなかなか進んだものでした。それで3人は幼い子どもたちと田畑で泥まみれになって働きますが、当時の社会情勢は無関心どころか、物好きな連中やな、なんか魂胆(こんたん)があるんやろと嘲るありさま。裕福な小橋家の親族からも嫌われ、この運動はすぐに経済的に破綻(はたん)し、おまけに病弱だった勝之助は死亡します。
やむなく実之助と歌子は、どうしてもいきばのない数人の子どもをつれて大阪へ移り、キリスト教徒で慈善家の阿波松之助の援助を受け、昼は田畑を耕作し、夜は歌子は夜学校の教員、実之助は理解のありそうな企業や教会を訪れ、必死になって理想を語り協力を求めました。

歌子の胸像 
博愛社(淀川区)

明治32年(1899)念願かなって2人は神津村(現・淀川区十三元今里)に土地を求め、小さな施設「博愛社」を再建、大阪で初めての孤児救済運動を展開します。もちろん公的機関の援助などはありません。それからの2人の苦労はとうてい筆では表現できないほどですが、血と涙の奮闘を重ねてようやく礎(いしずえ)のできた同37年、歌子は博愛社運動に共鳴したプール女学校教員山本カツエに懇願して実之助と結婚してもらい、博愛社の経営を夫婦にまかせて去っていきます。もちろん前号で紹介した尊敬する矢島楫子(かじこ)を支え、矯風(きょうふう)会活動を広げて、女性の地位向上に取組むためです。
なおこのカツエが、のちに「大阪福祉活動のお母さん」と呼ばれる小橋カツエです。彼女はすぐ落ち込んで悲観する夫・実之助を励まし、苦しい生活にめげず次々に新しい企画を実行し、現代的な福祉理念を持つ博愛社に育てあげた功労者です。とくに終戦後、焼け野原になった大阪市中をさまよう戦災孤児たちを救った功績はまことに偉大で、いつか別の機会にぜひお話したい女性です。
明治38年(1905)、歌子は楫子と渡米し「万国矯風会大会」に参加してびっくりしました。日本社会の後進性、とくに女性に対する差別・偏見をいやというほど痛感したのです。  (続く)