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2014年2月6日早川 徳次 (二)

大正12年(1923)関東大震災のため、工場・家屋はむろん妻と2人の子供まで失った町工場の主人早川徳次は、自分も大火傷を負い、いったんは生きる望みをなくしましたがようやく立直り、妻子を供養するのが務めだと思い直し、翌13年大阪に移り、早川金属工業所(シャープ株式会社の前身)を創設します。そして丁稚(でっち)小僧だったとき
「お前は学歴も知りあいも金もない。あるのはアイデアだけや。人のやらんもん作らなあかんぞ」
と親方からいわれた言葉を思いだし、アメリカからきたラジオをとりよせ、分解して研究に入ります。
もちろんたった1人でです。

翌14年、鉱石ラジオの製造に成功、この年はJOBKがラジオ放送を始めましたのでたちまち注目を集め、とぶように売れます。国産第1号のラジオはこれです。白黒テレビ、カラーテレビ、電卓等も、多くの電気器具メーカーがあるなかで、国産第1号はすべて徳次のシャープです。彼がどんなにパイオニア精神の持ち主だったか、よくわかりますね。
徳次がテレビの試作にとりくんだのは、昭和6年(1931)からです。世界で最初にテレビの映像実験に成功したのは、1925年、イギリスのJ・ベヤードですが、日本ではこの翌年の12月、浜松高等工業学校(現・静岡大学)教授高柳健次郎が、直径15㎝のブラウン管いっぱいに、カタカナの「イ」を浮かびあがらせたのが最初です。ただし方法・技術はベヤードとは全く異なります。
徳次はさっそく健次郎の部下の技術者を招き、費用を惜しまず本格的な実用化を試みたのです。BKも応援、会社内に研究施設を作り、画面映像実験に成功しますが戦争がきびしくなり、やむなく中断されます。あと一歩だったのに…と残念がった徳次は、戦後いちはやく他社にさきがけて試作を再開、昭和26年(1951)国産テレビ第1号を市場に出しました。このときの価格は1台29万円、公務員の初任給が9千円だった時代の話です。なお松下幸之助のナショナルは、1年おくれて同27年に発売しています。
シャープはアメリカのRCA会社と業務提携し、価格をさげて同29年頃から1台12万円で量産体制に入ります。徳次はもっと値段を下げたい、そのためには売れなければならぬと宣伝・広告に知恵をしぼりますが、もと大相撲力士の力道山が、前代未聞のプロレス興行を始めようとするのに目をつけます。(続く)