わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月6日鶴 彬 (三)

昭和6年(1931)川柳作家で金沢第七連隊所属の陸軍二等兵鶴彬(つる・あきら、本名喜多一二)は、隊内で反戦活動をした(治安維持法一・二条該当)罪で、懲役2年の実刑を課せられ大阪に護送、大阪衛戍(えいじゅ)監獄に収監されます。
大阪はかつて彬が川柳革新運動のスタートを切った思い出の地ですが、兵士専門の監獄で、その厳しさは言語に絶しました。殴る蹴るは日常茶飯事(さはんじ)、冬は野良犬でも耐えられぬ寒さに凍え、夏はシラミや南京虫に存分に血を吸われ、おできだらけになります。
この年はドイツにヒトラー内閣が生まれ、作家小林多喜二が警察に虐殺(ぎゃくさつ)され、京大に滝川事件(学者に対する思想弾圧)などが起こり、軍国賛美主義に染めあげられる時代です。

彬の色紙

同8年12月刑期が終わり、軍隊不適者として除隊になりますが、居場所がない。日雇い労働をしながら川柳雑誌に投稿しますが、恐がって誰も相手にしてくれません。そんな彬にあたたかく手をさしのべたのが、以前彼の才能を愛しかわいがってくれた井上剣花坊の夫人井上信子でした。彼女は、発行していた川柳誌「蒼空」の編集業務を任せ、さらに知人に働きかけて「鶴彬に生活を与える会」を作り、鶉(うずら)の卵を販売する募金運動にのりだします。さすがの彬も人の情におセンチになったのか、「枯芝よ団結して春を待つ」「日給で半分食える献立表」といったおだやかな句を詠んでいます。  昭和12年(1937)7月、日本軍は中国侵攻を開始、帝国政府は日独伊防共協定を結んで、徹底的に左翼作家・文化人の執筆禁止にのりだしました。怒った彬は「しゃもの国綺譚(きたん)」を発表「興奮剤打たれた羽たたきてしゃもは決闘に送られる」「つゐにねをあげて倒れるしゃもに続く妻(め)どり子どりの暮らし」「しゃもの国万才と倒れた屍(しかばね)を蝿がむしっている」など、字数を無視した痛烈な諷刺川柳を作ります。
この年12月、信子の世話で深川木材通信社に就職した彬は、翌13年2月、特高(思想犯専門の特別警察)に逮捕され、リンチのようなむごたらしい取調べを受けて、同年8月29才で死亡しました。警察の発表は赤痢(せきり)による病死だとなっています。(終わり)