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2014年2月6日鶴 彬 (二)

昭和5年(1930)1月、反戦川柳作家鶴彬(つる・あきら。本名喜多一二)に赤紙(召集令状)がきて、陸軍二等兵として金沢第七連隊第五中隊に配属されます。時に21才でした。
当時の社会運動家たちは、国家に反逆する不逞(ふてい=不満をいだき無法なことをやる)のやからとして、軍隊でたたき直してやるとの風潮があります。マークされていた彬はたまりません。3月10日の陸軍記念日に、鬼も震えあがるといわれた重営倉(懲罰を受けた兵士が入れられる牢)におくりこまれます。性根を直すため拷問・暴行おかまいなしという世界です。彼が何をしたのかはよくわかりませんが、上官の理不尽な仕打ちと軍隊の不合理性を、直接連隊長閣下に訴えたからだといわれます。まさに江戸時代の直訴(じきそ)の罪ですね。

鶴 彬

2、3ヶ月でボロ雑巾(ぞうきん)のようになって釈放されますが、翌6年、今度は「第七連隊赤化事件」の首謀者として、軍法会議(兵士の裁判)にかけられました。これも軍隊という世間と隔離された場所でのできごとですが、判決文が残っており、こんな内容が記されています。
「喜多一二は日本プロレタリア芸術連盟に所属、マルキシズム、無政府主義の過激書を愛読するうちに、わが帝国の立憲君主制を廃し、プロレタリア独裁の共産主義社会の実現をめざしていた。そのためひそかに無産青年新聞を入手、隊内に回覧者をつのり仲間を増やそうと画策する。まず二等兵角田通信に親切ごかしに接近し、きみはこんな安い給料でこき使われ、殴られ蹴られ、あほらしくはないかと話しかけた」
「次に通信の実家金沢市南長門町の角田利三郎方を喜多宛郵便物の受け取り先にするよう説得し、厳封した同新聞を入手、兵士仲間に熟読すべしと回覧する」
「大学卒業者はいないかと探し回り、大江均二等兵をみつける。大学卒業者はマルクス・レーニン主義を理解しておるからだ。大江は自分はキリスト教信者で思想に興味はないと断ったが、執拗につきまとい、ついに回覧発起人に加えることに成功した」
ほかに喜多の手箱から、「ソビエートロシア、日本共産党万才」と手書きの紙片を押収したとして、「治安維持法第一条・第二条」に該当すること明白だと、彬は懲役2年の実刑判決を受けます。    (続く)