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2014年2月6日松と竹の兄弟 (三)

興行界の革新運動を起こした双子の兄弟白井松次郎と大谷竹次郎は、明治35年(1902)再び力を合わせて「松竹合資会社」を設立します。
4年後京都から大阪に進出し、道頓堀の中座・朝日座・御霊(ごりょう)神社境内の文楽座等の経営権を買取り、さらに同41年東京の新富座・本郷座も入手します。そして大阪は兄の松次郎が、東京は弟の竹次郎が責任をもって経営すると分担し、さあ、どちらが成功するか競争やと、西と東に別れます。
姿・形からしゃべりかたまでそっくりだった松と竹の兄弟に、このころから目立った違いがでてきます。松次郎は伝統芸能を大切にしますが、竹次郎は新しい芸能開発に力を入れ「松竹女優養成所」「帝国劇場女優養成所」を作り、珍しかった女性のスター育成に努めました。

大谷 竹次郎

大正4年(1915)、その竹次郎に不幸が襲います。目に入れても痛くなかった一粒種の、当時中学生だった栄次郎が、中禅寺湖で突風にあい、ボートもろとも転覆し、水死したのです。竹次郎の悲嘆ぶりは誰もがまともに見られないほど、事業も放棄して、生きた屍(しかばね)のようなありさまになりました。
そんな竹次郎を立直らせたのが、松次郎の養子白井信太郎です。彼は海外生活で映画の存在を知り、養父に進言して同9年「松竹キネマ部」を創設、この新事業の社長に失意の叔父竹次郎を説得して就任させます。
よみがえった竹次郎は、蒲田に9千坪の土地を購入し、小山内薫(おさないかおる=劇作家)を招き「俳優養成所」をたちあげます。またパラマウント映画で天才カメラマンとうたわれたヘンリー小谷をひきぬき、日本で初めての本格的映画(当時の名称は活動大写真)「島の女」を制作させます。この作品は成功しませんでしたが、主演の栗島すみ子の愛くるしいこと、次々に出演してアイドルとなり、映画は松竹が一番だと誰もが思うほどの地盤を築きます。
といっても、興行組織としての松竹は、栄枯盛衰をくり返します。とりわけ同12年、漏電事故のため「東京新歌舞伎座」が全焼、再建にとりかかって半ば以上できあがったときに、あの関東大震災に見舞われました。
努力が水泡に帰し、瓦礫(がれき)の山となった新歌舞伎座の前で、竹次郎は茫然(ぼうぜん)と立ちすくみ、言葉を失います。(続く)