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2014年2月6日松と竹の兄弟 (二)

双子の兄弟・松次郎と竹次郎の兄である大谷松次郎は、明治30年(1897「夷谷(えびすや)座」という劇場の売店の娘白井ヤエにひとめぼれします。20才のときです。ヤエの親が、お前が養子にくるのなら夫婦にしてもよいといいますと、二つ返事で入りむこになり、白井松次郎と姓を改めました。そのとき、いつも影のように寄りそっていた仲良し弟の竹次郎に
「これからは別の人生を歩こうやないか。もう兄弟やない。お前とライバルになって仕事したい」
と、きっぱりいいわたします。同じ日に生まれても双子はふしぎなもの、いつも兄が先を歩き、弟はあとからついてきたのです。松次郎は今こそ、弟が独立できるチャンスだと考えたのでした。

白井 松次郎

兄がいなくなってしばらく涙ぐんでいた竹次郎は奮起します。倒産して借金のカタになっていた「阪井座」の経営権を譲り受け「歌舞伎座」という大きな堂々たる名前に変えて「実川延二郎一座」を招き、一世一代の大勝負に出ます。もし失敗したら首をつったぐらいではすまなかったでしょう。初めて兄の援助なしの興行でしたが大入り満員、延二郎の熱演もありますが歌舞伎座という名称が客を集めたとみられます。
いっぽう松次郎は夷谷座をはじめ、各劇場の売店のチェーン化を試み、大量仕入れの安売りで利益をあげますが、弟の成功に負けじ魂に火がつきました。同34年、火災で焼失していた「常磐(ときわ)座」の興行権を買収、新京極に移して「明治座」と改称。借金して近代的設備をふんだんに取入れ、高級劇場と銘打って旗あげします。わずかでも料金を低くとの常識を破って、高いが大名気分にひたれるように工夫したのです。これが一般の人たちにも受けました。誰でも一日富豪になれるからです。
兄弟の成功の原因は、経営の合理化にあります。興行権を親分たちからとりもどし、ドンブリ勘定を改め、役者の出演料を腹芸ですませていた習慣を破り、明確な契約書をとりかわしています。収支決算を透明にしますから、コヤの下働きの人たちも文句のつけようがありませんでした。
兄弟の華々しい活躍に世間は注目します。新聞も「松と竹の興行合戦」「さあ松と竹、いずれが勝つか」とはやしたてます。これが興行界に君臨する「松竹」のおこりです。 (続く)