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2014年2月25日鉄道唱歌の人たち (九)

大正7年(1918)冬、何度も商いに失敗したあげく、俗称「でんでん長屋」現・北区梅田1丁目あたり)にひきこもって、うらぶれた暮らしをしていた「鉄道唱歌」の初版本の刊行者市田元蔵は、世界中を震えあがらせた悪性インフルエンザ「スペイン風邪」に感染し、高熱にうなされ危篤状態となります。 その最期を聞いてとんで来たのが、作曲者の多梅稚です。もちろん会話など不可能。梅稚は持参したバイオリンで、くり返し「鉄道唱歌」を演奏してやりました。元蔵は涙を流す力も無かったが、しきりに首を亀のように動かし続けたといわれます。好漢元蔵、43歳の他界でした。

鉄道唱歌

鉄道唱歌

その梅稚の生涯も哀れです。連載二で述べたように、あの『古事記』の編集者・太安万侶が先祖と伝わる多家は、平安時代から雅楽で宮廷に奉仕した名門です。元蔵にひっぱりだされたときは、府立一中(現・府立北野高校)の教員でしたが「鉄道唱歌」の大ヒットで全国的に有名になり、母校の東京音楽学校(現・東京芸術大学)作曲科の教授に栄進します。 作曲技能は天才的。学生の人気も高く学長は大喜びで彼を文部省に、国費ドイツ留学生にするよう推挙します。ところが留学が近づいたころ妙な体調不良が続き、やむなく学長は同僚教授に代えました。 真面目すぎるほど純粋で潔癖、デリケートな気質の梅稚は、このいきさつでひどく傷つきます。泥沼にはまるように神経系統を病み、明治36年(1903)たったの2年間の在任だけで、東京音楽学校を退官しました。 それからの彼の行動は、筆者には理解できないことばかりです。どうしたことか株に凝り、失敗の連続。とうとう京都にあった屋敷と土地を処分して損をとりもどそうと大勝負にでて大損失。5万円もの巨額の借金を背負いこみ、世間から離れて茶臼山(天王寺区茶臼山町)の小さな長屋に隠れてしまいました。 大正9年(1920)6月、元蔵を見舞った2年後、52歳で世を去りますが、あれほどの天才作曲家が、二度と譜面をのぞかず、楽器にも手を出さず、あまり巧くない絵を描いたり、器用にハンコを彫ったりして、ひっそりと暮らしたそうです。 ひとりだけ順風満帆だったのが、元蔵から版権を譲渡され、奇抜な宣伝力でブームを起こした「三木楽器店」主人三木佐助です。ヤマハオルガン等も独占販売し、大成功しました。          (終わり)