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2015年4月24日大阪市長物語 (三)

明治31年(1898)10月、初めての選挙で当選した初代大阪市長田村太兵衛は、前身が心斎橋の呉服店「丸亀屋」の主人だっただけに、和服に前垂れ姿で市役所に出勤。物腰も低く、文句をつけにきた人にまで
「へえー、いらっしゃい」と迎え、笑顔で言い分を聞いてやり、「まいどおおきに」と送り出しました。当時の大阪府知事たちはお殿様タイプが多かったので、誰もがびっくり。人柄も良く私欲も無かったので「前垂れ市長」とか「おおきに市長」とかのあだ名がついて人気は上々、市民に親しまれます。
しかし太兵衛は、6年の任期を全うすることができませんでした。同34年8月、突然辞表をだしたのです。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

「いやあ、もうこりごりですわ。市長になってみなはれ。色々な人が勝手なことばかり言いよる。頼むあり、責めるあり、恨むあり、泣きつくものあり。風が吹いても火事になっても、市長が悪いからやと言いなはる。そのうるささには、ほとほと閉口しましたわ。相手は舌一枚動かせばええが、やってみなはれ、ゼニはいるし人手もいる。どないにしんどい仕事か、じきにわかりまっせ」
これが辞任の弁ですが、ひきがねは同年7月20日付の朝日新聞の「大阪市会の近況」と題した記事だと思います。これは大阪市会内部の腐敗・無能ぶりをきびしく批判したもので、
「市会刷新を行はんと欲せば、大英断を以て市長以下の更迭を行ひ、快刀乱麻を断つの挙に非ずんば、改新の実は到底望むべからず」
と結んで、市長の引責辞職を強く要求しています。
しかし本当のところは、西成・東成両郡の編入で、大阪市の人口が50万から70万人に急激にふくれあがった状況に、太兵衛では対応できなかったのが、真相のようです。つまり太兵衛にはカネを集める力がありませんでした。
2代市長には、東京帝国大学出身の関西鉄道株式会社社長・鶴原定吉が就任します。彼は日本銀行大阪支店長や政友会総務委員を歴任し、政・財界に太いパイプを持っています。政友会総裁伊藤博文の強い後押しです。
定吉は市長になるや得意の交通行政にとりくみ、商都大阪大発展の起爆剤になった第5回内国勧業博覧会を天王寺で開催、経済通の敏腕を存分に振るいます。彼を助けたのが、東大・日銀の後輩で助役の菅沼達吉です。そうです、俳優・森繁久彌のお父さんです。(続く)