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2015年4月24日大阪市長物語 (一)

大阪市の発展に、タイプの異なるさまざまな市長さんが、行政手腕を発揮して貢献されました。私は生きている人をあげつらうのは大嫌いなので、戦前の市長さんから偉い人や、人柄もすばらしいと思っている方たちを選んで、今号からしばらくお話しします。
大阪市は明治22年(1889)に誕生しますが、市長は官選の府知事が兼務したため、選挙で選ばれたのは、同31年(1898)10月に就任した田村太兵衛が初代です。

田村 太兵衛

田村 太兵衛

市長は自前で決めるべきや、天下りでは地方自治はできまへん…こんな声が市民から起こって、この年選挙がおこなわれるが、選挙といっても投票権のある者は、59名の市会議員だけという時代でした。
ところが肝心の立候補者がいない。仕方がないので議員たちは相談し、大阪一の豪商で人望もある住友家の15代当主住友吉左衛門友純に、つれだって頼みにいきました。ところが吉左衛門は、
「あかん、商いが忙しいよて厭や」
と、そっぽを向きます。手をかえ品をかえ説得に手間どっているうちに、心斎橋筋2丁目(現・中央区)にあった呉服屋「丸亀屋」の主人田村太兵衛が、「わいがやったろう」と大声をあげます。
当時彼は49歳の働きざかり。学問や文芸を好み、市会議員の経験もあって、
「厭なもんをかつぐのはけしからん」
これが立候補のあいさつです。
驚いた市会の多数派は、
「大事な大阪を、呉服屋なんかに任せられるかい」
と、土下座までしてとうとう吉左衛門をくどき落とし、強引な選挙運動を展開します。
運動期間はたったの三日間ですが、物珍しさも手伝って世間は大騒ぎ。朝日新聞は先頭に立って、
「住友派28名、田村派25名、中間派6名が鍵をにぎる大接戦」
とはやしたてます。さあ、この6名の引抜き合戦が大変だ。酒席に招き物品を贈りあい、実弾もおおいに乱れとび、
「住友派の荒木英一、田村派に通じたり。参謀横田虎彦も田村が根城に泊まりたりとの噂たつ」
との怪情報まで流れます。田村の選挙事務所は大きな料亭でした。しかしネーム・バリューがちがう。誰もが吉左衛門の楽勝を信じて投票箱を開くが、とびあがります。(続く)