わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月10日命の伴走者 (その2) 家族だからできる事

ご家族や、愛する人、大切な人が「末期がん」の宣告を受けて、心配されていらっしゃる方へ。
「まず、大事な事は、過度に甘やかさない事です。(中略)ただ、患者が疲れてつらそうな時は、横になる事を勧めて、できればスキンシップをしてください。」(『僕は、慢性末期がん』尾関良二著 文春新書より)
夫との闘病生活を共に歩んできた自分にとって、初めて出会ったであろう、心のサポーターとしての一冊からの一文である。読んだ直後、この 〝スキンシップ〟 という言葉にどこかピンとこない違和感を感じる自分がいた。一年十カ月。家での看取り期の最終章を迎える頃、このスキンシップの意味をしみじみと実感した。 …家族にしかできない事。家族だからできる事。夫の逝き方の中での気づきを綴ってみたい。

「なあ、…母ちゃんは?」
「今、帰るところよ…。」
「もう一度、呼んできて。」
今しがたまで、むくんだ足をさすりながら、我が子の傍で寄り添っていた夫の母。まさに玄関を出ようとした瞬間に、再度の対面を強く望んだ夫がいた。戻って来た母は、再び身体をさすりながらタイムスリップしたかの如く、遠い昔、幼き我が子に投げ掛けていたであろう言葉の数々を、49歳の夫に届けていた。

海…。
それは最期まで兄弟共通の
セカンドライブだった。

「兄貴、…明日も来てな。」
男ふたり兄弟。外見上?!決して仲良しとは言えぬような関係であったのに、互いの心の奥に横たわる兄弟結束の存在を知った闘病期間。こんなにも素直に兄に甘える弟でもあった夫の姿をみたのは初めてであった。

最期を迎える数日前の家族への甘え。あるがままの気持ちを表現でき、それをしっかりと受け容れる家族の存在があった事は、とても豊かな逝き方ロードであったのかもしれない。
こうした充たされた最終章に至るまで、家族との時間はずっと美しい物語ではなかった。

「もう帰って…。」
「こなくていい…。」
無味乾燥な壁、小さな天井ばかり見つめてベッドに横たわらなければならない入院期間。心がとんがる日には、こうした言葉が夫の口からこぼれてくる。決して本心ではない、むしろ強がりである事は百も承知であった。
時々、そんな夫をどうしても抱えきれなくて〝あるがままに向き合う〟〝寄り添う〟 そんな言葉の真意の難しさにぶつかる自分がいた。
こんな日は本屋に潜んだ。死生観に関する書籍がずらりと並ぶ棚の前で、しばし本と共にうずくまった「死とは何か。」
今、まさに逝き方の中に身を置く夫との日々、絡まる心のもつれをそっと解く何かを求めていたのかもしれない。出会ったこの一行、この一文を心の杖にして、再び夫の待つ病室へと足を向ける自分がいた。

人は生まれて人から愛されることをなくして、人間にはなれない。育てる者と眼差し合う、触れ合う、抱き合う。こうした身体だけではなく心も含めたスキンシップを受け、愛着(アタッチメント)を形成する。これが生涯の人間関係の基盤を成すという。
夫の逝き方の中で感じた事。尾関さんが言うように、人はこの世に別れを告げる時も、このスキンシップを必要とするのかもしれない。他者を求め、他者と共に心を重ねながら生きてきた根源的な喜びや充足感。命の灯が消える間際まで、感じ取ることができる、いや、感じていたい家族や人とのつながりであると信じて止まない。(続く)