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2015年4月24日大阪市長物語 (五)

明治34年(1901)8月、任期半ばで辞職した初代大阪市長田村太兵衛に代わって登場した2代市長鶴原定吉は、市民たちが仰天するほど働きだします。
彼は安政3年(1856)生まれ。東京帝国大学卒業後外務省に入り、中国の天津や上海で領事を歴任、明治25年(1892)日本銀行に入社。
ヨーロッパに留学して経済・行政の実務を習得、帰国後は伊藤博文(大日本帝国初代首相)の懇望で、彼が党首を務める立憲政友会の総務委員になった超エリートの実業家です。
市長⑤
定吉は万事どんぶり勘定型の前市長が背負っていた莫大な借金を徹底的に洗い直し、赤字財政再建を錦の御旗とします。西洋で学んだ合理的な経済観に立って、まずとれるところからは容赦なく税をとりたて、「追剥市長」のあだ名がつくほど恐れられ、嫌われました。その代表が「大阪瓦斯騒動」です。
大阪瓦斯は明治29年の設立ですが経営が破綻、当時は倒産同然でした。企業家浅野総一郎は、ガスは大阪活性化のエネルギーになると考え、官財界で圧倒的な人気のあった日本銀行大阪支店長の片岡直輝に頭を下げて社長に迎え、再建を計ります。直輝はニューヨークの大資本家A・プレディに出資を頼み、当時ようやく経営を軌道にのせたばかりでした。
定吉は社長室にのりこみ直輝に、
「貴社は大阪市が設置監督する道路を勝手に借用し、ガス管等を埋没しておる。これは無銭飲食と同じだ。さっそく使用料を払え」
と大金をふっかけます。驚いたのは直輝だ。定吉が日銀に勤めていたころ、二人は無二の親友で、ツーカーの間柄でした。
「なにを言う。ガスは公共事業だ。大阪市の発展にどれほど役立っているか、市長が知らぬはずはあるまい。無茶ないいがかりだ」
直輝はこう反論するが、定吉はいっこうにひるまない。音をあげた直輝は、これまた親友だった朝日新聞社長村山龍平に助っ人を頼みます。龍平はさっそく大阪市は、公権力を笠に着た横暴な略奪者だとキャンペーンを始めるが、今度は朝日と犬猿の仲だった毎日新聞が反発。朝日は広告料欲しさに私企業の走狗(手先)になったと攻撃したからさあ大変、有名な朝日・毎日大戦争が始まり、世論も二派に分かれて沸騰します。
結局大阪財界の巨頭藤田伝三郎の仲介で直輝が折れ、大阪瓦斯は50年間利益の5%を大阪市に納入する約束で決着しました。  (続く)