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2015年4月24日大阪市長物語 (七)

大阪市が今も地方自治体のトップに君臨する礎を築いたのは、申すまでもなく6代池上四郎と7代関一のお二人です。まさに歴史に残る名市長です。
市長⑧

6代市長池上四郎は、安政4年(1857)会津若松(福島県)に生まれました。父は会津藩士池上武輔、その4男です。会津城が官軍の攻撃を受けたおり、有名な白虎隊に入ろうとしますが、隊員は16歳以上との規約があり、当時12歳の彼は追いだされ、涙を飲んで隊を離れます。しかし多感な少年四郎は隊員全員の自刃と落城に号泣し、自分だけが生き残った罪悪感に絶望、故郷を捨てて放浪生活を続け、下北半島の荒地に流れついて貧しい開拓農民になりました。

食うや食わずやの生活を続けますが、会津藩の生き残りの武士たちが新政府に加わり、日本再建をめざしているのを知り、明治10年(1877)青雲の志をいだいて東京に出て独学、難しかった巡査の採用試験に合格します。生来頭脳明晰、何度も優秀警官として表彰を受け、エリート集団の警備局に選抜されてからは順調に昇進。富山、京都、長崎、ふたたび東京の各地で警察署長を務め、明治33年(1900)初めて大阪に来て大阪府警本部長に就任しました。
明治の末から大正の初めにかけての大阪市は、疑獄事件があいつぎ、汚職、贈収賄がはびこって市会議員や大物政治家たちが次々に逮捕される市政混乱期で、もう市民たちはあきれ顔でした。これは大企業の実業家たちが市会議員の大半を兼ねたからで、たがいに利権を漁ろうと電車の新路線問題や、新規事業の電気・ガス等に群がったからです。
「市長はいっそ大阪に関係のない人がいい」、

こう考えた人々は、中央から大物の海軍中将で男爵(特権を伴う華族の位のひとつ)肝付兼行を、第5代市長に招きます。市会の大反対を押しきって、市民たちが強行した人事です。ところが彼は大阪のことはなにも知らない。市政方針の見識もない。たしかに清廉潔白ですが鷹揚(おおらか)で殿様気取り。「万事、よきにはからえ」といった調子で、たちまち総スカンを食い、たった1年7ヵ月で病気療養と称して退職しました。
このままでは大阪市は沈没してしまう…政・財界の人たちは目の色変えて適任者を探しまわり、やっと2人の候補者をみつけます。ひとりは朝日新聞社社長村山龍平、もうひとりが府警本部長池上四郎でした。(続く)