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2015年4月23日大阪市長物語 (十六)

大阪市都市計画部では、御堂筋の街路樹を何にするかで連日会議が開かれていました。桜、柳、プラタナスなどいろいろな案が出ますが、係長伊東俊雄は頑くなに銀杏を主張します。
①銀杏は東洋の名木だから日本にふさわしい。
②落葉樹で冬は日差しを妨げず、あたたかだ。
③大木になるが、御堂筋は電線を地下に埋めるから困らぬ。
④四季こもごもに変化し、やがて白亜のビル街になる御堂筋と色彩的に調和する。
俊雄は提案理由をこう述べています。ひょっとすると難関の母校東京帝国大学に合格した日に、東大名物校庭の銀杏が笑顔で迎えてくれた感動が、今も胸奥に熱く残っていたのかも知れません。俊雄が、将来御堂筋には高層ビルが並ぶと言っても、誰も信用しない時代でした。
結局坂出計画部長らのプラタナス派と、俊雄を後押しした椎原公園課長らの銀杏派が対立し、何度会議を重ねても決着しません。仕方なく足して2で割り、梅田から淀屋橋まではプラタナス、淀屋橋からミナミにかけては銀杏との妥協案でまとまります。
俊雄の銀杏にかけた執念は物凄い。埼玉県から名木といわれた銀杏の苗929本を取り寄せ、大阪の土壌に慣れさせるため豊里苗園(現・旭区太子橋公園)を設けて、育苗してから御堂筋に移植する苦労を重ねています。前号で触れた文化勲章の大仏次郎さん、「(御堂筋の街路樹に)銀杏を植えたのは誰だろう。いずれ名もなき小役人が決めたのであろうが…」なんて、気安く言わないでください。小役人で悪かったですね。
御堂筋は昭和12年(1937)5月、完成しました。総工費3千4百万円のうち、用地買収と補償費が3千万円、銀杏並木は3万4千円かかっています。

関一の筆墨

関一の筆墨

しかしは御堂筋を歩くことはできなかった。2年前の同10年、大阪市史上最大といわれた室戸台風の襲来で、徹底的に破壊された市街の復旧に、寝食を忘れて取り組んだ彼は、過労がたたり、あっという間に世を去りました。享年62歳。
「なあ伊東クン、御堂筋できたら弁当さげて一緒に散歩に行こうな」
俊雄の労をねぎらってこう言っています。ほんまに黄金の小鳥のような銀杏の葉が、沈陽を浴びて舞い落ちてゆく晩秋の日暮れ、お二人をアベックの後姿で歩かせたかったです。          (続く)