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2016年6月29日松下幸之助③

自転車屋(当時は超高級乗り物「五代商店」の丁稚・幸之助少年は、ある日本町2丁目(中央区)の蚊帳問屋「鉄川」の注文を受け、自転車1台を持参。商売上手の主人から

「現金やさかい1割引きやで」

と値切られ、承知して帰り、番頭に思いきりひっぱたかれます。
「このどあほ!うちは5分引きや。すぐ行ってとり返してこい」
顔面蒼白になった幸之助は、珍しく必死になって言い返しました。
「いっぺん約束したもんは、ほごにはできまへん。いやだす!」
奥で聞いていた五代商店の主人五代音吉は、大笑いしながら出てきて

「こいつ、商いの道知っとるで」

と、頭をコツンとたたきました。数日後このやりとりを知った鉄川の主人は感心し、今度は5分引きで10数台も注文してくれます。この「いっぺん約束したもんは…」が、彼の生涯守り続けた松下商法の哲学です。

五代商店に奉公した幸之助

五代商店に奉公した幸之助

幸之助の主家思いは格別でした。明治42年(1909)ごろから大阪では自転車ブームになり、各地で自転車レースが開かれます。彼は午前3時に起きて日の出まで猛練習し、「五代商店」のたすきをかけて出場。成績はともかく参加選手中最年少だったので「ぼん、偉いなあ」と人気を集め、店の名を広めます。堺のレースでは転倒して気絶、左肩甲骨を骨折したこともあります。
翌43年、大阪市内では電燈が評判になる。時代感覚に鋭敏な幸之助は、「これからは電気の時代や」と手放すのを惜しがる店主音吉にひざまづいて何度も懇願、退職して姉婿の亀山武雄(のちのナショナルの重鎮)のコネで、この年10月「大阪電燈会社」現関西電力)の内線工(当時16歳)になりました。それからの猛勉強はすさまじい。なにしろ小学校4年で中退したから、正式の学問はなにひとつ習っていない。電気の基本的な知識も乏しい。まず先輩に平身低頭して修理技術のイロハを学び、わずかな給料のすべてを電気に関する書物の購入費にあて、独学で教養をつけます。
しかし彼は本のとおりにはやらない。かならず途中で首をかしげます。
「なんでこないせんとあかんのや。もっとええ方法があるんとちゃうか」
疑問はすぐ研究・工夫に転じ、器具類を分解しているうちに、ちょっとしたヒントから誰もが気づかないアイデアを発見しました。            (続く)