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2016年6月27日松下幸之助⑤

大正4年(1915)9月、幸之助(21歳)は、姉婿の亀山武雄(のちのナショナルの重鎮)に、「井植むめのという子や。おまえより二つ年下で働きもんやで」と勧められて、お見合いをします。といっても八千代座(西区にあった芝居小屋)の前で、絵看板を眺めているからこっそり見てこいとの程度です。
当日二人が人ごみのなかをうろうろしていると、中年の女性にひっぱられて若い娘がやってきて木戸前で立ちどまり、絵看板を見あげる仕草をします。あの子や、よう見とけと背中を押されるが、娘はうつむきかげんでよく見えない。横顔がちらっと見えたときは、もう立ち去ってしまいます。
「どや、ええ子やろ。なかなかのべっぴんさんや。さ、決めた、決めていいな」
武雄はひとりはしゃいで、勝手に縁談をどんどん進めていきました。

新婚時代の松下幸之助

新婚時代の松下幸之助

むめのは淡路島の浦村の自作農井植清太郎の次女に生まれます。父が早世したためしっかり者の母こまつは、娘たちを大阪の船場の裕福な商家に、花嫁修業をかねて奉公に出し、自分は町工場に勤めて懸命に働きます。むめのも人柄がよく働き者で、主家からもかわいがられ、のちに幸之助が企業家として大成功したのは、彼女の内助の功だと断言できるほどのいい縁談でした。
この年の暮れ、幸之助は大阪電燈会社(現・関西電力)の検査技師に昇格します。在職5年目の出世でたいしたものです。配線終了の報告を受けてから現場にでかけ、チェックする仕事ですから時間的にゆとりができる。彼はこれをソケット(電線の先端につけ電燈などをさしこむ器具)の研究にあて、工夫を重ねて新製品を作り主任に見せたところ、「こんなもん、売れるものか。怠けとらんで働け」とひとことのもとにはねつけられます。くやしくて涙がとまらない。あまりのショックからか体調を崩し、肺炎を併発して一ヵ月ほど静養、「よし、独立して奴を見返してやる」と病床で決心します。
大正6年6月、「お前、こんなええ地位捨てるんか」と目を丸くする主任に辞職願いを出した幸之助は、退職金・貯金合わせて100円の資金をふところに、猪飼野(東成区玉津2丁目)の二間しかない借家を工場に改造し、ソケットの製作を始めます。むめのの弟の小学校を出たばかりの井植歳男(のちの三洋電機創業者)を呼びよせ、夫婦と歳男は2畳一間に寝起きして、寝食忘れて働きました。                  (続く)