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2016年6月23日◆わが町人物誌 松下幸之助⑧

大正11年(1922)秋、従業員50余人をかかえる町工場「松下電気器具製作所」の主人になった幸之助(28歳)は、ヒット商品「改良アタッチメントプラグ」と、「二燈用さしこみプラグ」を積んである夕暮れ、自転車でセールスに出かけます。秋の日はつるべ落とし、おまけに風がでて、ローソクランプがすぐに消えるので腹が立つ。当時はローソクランプとアセチレンガスを使ったガスランプが大半で、電池ランプは無いこともないが、寿命が2~3時間、コストが高いのであまり使われていませんでした。

大ヒットした自転車ランプ

大ヒットした自転車ランプ

「よし、なんとか工夫したろ」
さっそくマネシタの異名をとる幸之助は知恵をしぼり、半年かけて自転車につける砲弾型の電池ランプを製作します。30時間から50時間も連続使用が可能で、しかもローソクランプでも1時間1本で2銭するのに、幸之助式ランプなら50時間の電池代が30銭、安いうえにはるかに明るい。自転車屋五代商店に丁稚奉公していたときの経験も、おおいに役立ちました。
「そんなアホな。これ1個で50時間はムリムリ」
と言う電気屋や自転車屋には、 「ま、いっぺんつけてみなはれ」
と、無料で試供品を置いて廻ります。幸之助のことばどおりです。どこの店でもつけっ放しで40数時間は軽くもつ。たちまち砲弾型自転車用電池ランプは、お得意のプラグと並んで、爆発的な売れゆきとなります。
翌12年9月、死者・行方不明者10万4千人という関東大震災が起こり、東京は壊滅的状況におちいります。幸之助は砲弾型を改良して角型の新式電池ランプを作り、ひとつ1円25銭の安値で東京市場に卸す企画を立てます。といっても松下製は容器だけ、電池は「岡田乾電池会社」からの仕入れです。幸之助は社長を訪ね、
「東京に届けるさかい、電池1万個おくんなはれ」
と切りだします。
「ええっ!タダでっか。そんなムチャな」
と目を白黒する社長「いや岡田はん。無茶やおまへん。今年中にかならず20万個買います。そやから1万個先にオマケにつけてとお願いしてるんです」
と説得し、お国のためや、東京を助けてあげましょ…と何度も頭を下げます。
義侠心に富む岡田社長の援助も大きいが、幸之助は工場の製造機能のすべてを投じて1万個の角型電池ランプを生産、被災地に運び、これは試供品ですと全部無料で配りました。(続く)