わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

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2014年2月10日喪失感

かけがえのない大切な存在を失った時、人は喪失感を覚える。
失った存在と共に、現在も未来も紡ぐことができなくなった中で、その存在との過去が今に蘇る。
その時に、人は痛みや、言葉では表現できない複雑に絡まった感情を伴う。
今、東日本大震災によって、何十万人もの人々がある日突然にすべてを失ったことへの大きな喪失感の中で生きている。心からお見舞いを申し上げると共に、復興への微力ではあるけれど、ささやかな力となるような自分の生き方を見つめ直してみたい。

昨年の晩秋、夫が逝った。進行性の癌によってある日突然、余命宣告を受け渡された。
人生五十年にも及ばぬ四十七歳の本人は勿論のこと、周りもうろたえた。
「サヨナラをする時間がもらえたんだよ。」

友人からのそんな言葉を自分自身に言い聞かせながらの生き方が始まった。
人はこの世に生を受けた瞬間から、いつかは必ず死を迎えるものだと頭では分かっていた。
出産予定日ではなく〝逝去予定日〟となっては頭も心も大混乱であった。

ところが、夫はそんな現実の中で〝我が家での最期〟を強く懇願した。
漠然とその思いは理解できても〝家で逝く〟ことの深さや濃さは、その時に知る由もなかった。

そんな願いのお蔭かもしれない。宣告からの一年十か月。
〝生き方〟だけではなく、〝逝き方〟をも模索する時間を与えられたような気がする。
夫のいないこの春、日々の暮らしの中で時折、小さな喪失感に出会う自分がいる。

夫の愛車と同じ車が信号待ちをしている。そっと運転席を覗き込み、恐る恐る運転手の顔を確認している。
そこに居ないことは百も承知の上で、夫の影を今だ追い求めている自分にハタと気づかされる。
存在は無いけれど、亡き人の癖や習慣は、暮らしの中で静かに息づいていることにも出遭う。

昨年の暮れに断捨離の如く夫の遺品を整理して、自分を軸に生きていこうと前を向き始めた矢先の春。
ひょっこりと、どうってことのない過去の一コマが頭をもたげてくる。
やるせなく、切なくて、心が痛む。この世は無常であるとは知ってはいるはずなのに・・・。
夫とは、現在や未来を語り継ぐことができなくなったが故に生じる喪失感なのかもしれない。

かけがえのない存在を亡くして初めて迎えた春。
生涯の中で、そんなに何度も味わうことのない喪失感であるのならば、
その感情をもあるがままに自分の中で受け入れてみたい。
夫と向き合った一年十か月の短くとも重厚な『生き方と逝き方』をこの春から振り返ってみたい自分がいる。(続く)

この海で何回いや何十回
戯れたことだろう