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2014年2月5日織田 作之助 (六)

敗戦直後の混乱の中で、戦後文学の旗手といわれた作之助の華々しい活躍に、文壇の大御所志賀直哉は、
「きたならしい作品だ。二流じゃ」
と顔をしかめます。この話を聞いた彼は、少年時代からの上流階級への反発心が爆発し、居直って自ら二流文士だと称して『二流文学論』を超一流雑誌『改造』に発表、直哉はじめ老大家連中をからかい、若者たちの拍手をあびます。
しかし疲労から生活は荒れ、三高時代に苦しめられた肺結核も再発し、肉体も精神も無惨に崩れていきました。
昭和21年(1946)8月、読売新聞に『土曜婦人』を連載する頃は、仕事が多すぎて寝る時間がなく、執筆のために覚醒剤ヒロポンを乱用するようになります。
「挿絵の小磯良平さんには間にあわないので、電話であらすじを説明して書いてもらいました。オダサクさんは締切時間まで大声でわめきちらし、のたうち回っていました」
これは読売の編集委員の思い出話の一部です。

道頓堀界隈

この年12月、『土曜婦人』の舞台が東京に移るため、作之助は上京しますが大喀血し、翌22年(1947)1月10日、34歳で永眠しました。臨終に際し、
「十日戎の日に死ねるとは運がええ」
と喜んだといわれます。大阪を愛した作之助ならではの言葉です。
オダサクの特色は子供のような好奇心と、大阪人特有の初物食い、それに冗舌だったとこれも大阪出身の作家で友人の藤沢桓夫が語っています。
「身近な人の話や、面白い本を読んだらすぐ書きよる。感受性と摂取力は誰も及ばんやろ。オダサクに小説のネタ話したらあかん、とられてしまうでと私ら文学仲間はいつもいうてました」
桓夫がこうふり返ると、作之助のいきつけの本屋「淀屋」の主人は、
「日に2、3回は来やはりました。片端から猛スピードで立ち読みしやはる。わたいと目が合うと、悪いと思ったんか最後に一番安い本買うて出ていきはりました」
と回想する。
作之助の墓は楞厳寺(りょうごんじ・天王寺区城南町)にあり、
「ロマンを発見したと一語を残し絶命した」
と桓夫が記しています。                               (終わり)