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2014年2月17日下村彦右衛門(二)

享保2年(1717)京都の京町8丁目に呉服の卸(おろし)店「大文字屋」を創業した下村彦右衛門は、
「大という字は一と人を組み合わせた漢字や。わいは天下一の商人になってみせる」
と、商標を大にきめ、これを○(まる)でかこんだ符号を看板だけでなく、のれんや包み紙、荷札にまで、やたらとべたべたはりつけました。
「これ、なんと読むんや?マルダイやろ、いや、ダイマルや」
と世間は首をひねっているうちに、いつしかダイマル読みが定着します。

大丸引札(チラシ)

享保11年(1726)彦右衛門は、いつも水運を利用して商品を集めていた大坂に、拠点を移そうと計画します。
「商いは西の品物を東に流通させ、北と南の製品を交易(こうえき=交換すること)して、利益をあげるのがコツだ。そのためには交通の便利な大坂が最適の市場である」
これが彦右衛門の商い哲学です。しかし彼は一か八か(賭け勝負に出ること)の商法は大嫌いでした。まず大坂の心斎橋筋(現・中央区)にあった呉服商松屋清兵衛店が、経営不振で閉めていたのを譲り受け、同業者の知人八文字屋甚右衛門に共同出資話をもちかけます。これなら失敗しても半分の損失ですむからです。さらに実弟の久右衛門を支配人にし、松屋の旧店名も生かして「下村松屋店」と名を改め開店しました。間口1間、奥行2間というささやかな店でしたが、これが現在の大丸百貨店の始まりです。
彦右衛門の商法の基本は、「半季計算掛売り廃止、正札付現金払い」の2点でした。当時の呉服業界はどこも節季払い(盆と暮れの年2回に代金を清算すること)で、当然資金を寝かすことになりますから、利息含みで高値になります。また商品に値札がついていませんから、客と番頭・手代の押したり引いたりのかけひきにあけくれます。上物になると半日がかりの問答が続いて、やっと契約が成立するという非能率的な毎日でした。
ところが彦右衛門は墨くろぐろと数字を書いた値札をつけ、誰が値切っても一文もまけません。そのかわり品質は良く他店よりはるかに安値ですから、計算高いなにわっ子の心を巧みにつかみました。嘘八百を並べて大げさに吹きまくり、粗悪な品物を高価に売りつけるのが商人の腕だと信じられた時代に、彦右衛門はすがすがしい風穴をあけたのです。
(続く)