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2014年2月19日森 狙仙(二)

日本画壇の重鎮円山応挙は、持ち込まれた無名の絵師森狙仙のおびただしい猿画に驚嘆し、ひそかに狙仙の技法を徹底的に分析し、円山派の画風にとり入れます。
ただし応挙はその御礼のつもりでしょう。世渡りの下手な狙仙を援助し、狙仙の養子森徹山(てつざん)に息子円山応瑞の妻の妹を嫁がせ、親類関係を結んで狙仙を援助、大坂に画壇「森派」を築かせています。これはなかなかできることではなく、応挙の器量の大きさが感じられます。
大坂へ移った狙仙は今の西区土佐堀1丁目あたりに居住し、やがて名声は世間に広がっていきます。朝日新聞の創刊に協力した文人松本晩翠の文章(部分要約)に、

狙仙の猿画

「私の祖父は狙仙の近所に住んでいたので、よく彼を知っていた。夏の夕方、狙仙はいつも戸外に床几(しょうぎ)を出して、帷子(かたびら)のじゅばんを着て煙草盆を前に置き、立膝(たてひざ)をして往来の人を眺めて、身じろぎ一つしなかった。よほど人の動作に興味があったのだろう。その容体は猿にそっくり。猿の写生にとりつかれたそうだが、体つきまで猿の感化を受けて、初めて猿画が描けたのだろう…と、幼い私の頭をなでてこう語る祖父の言葉を聞き、わからぬなりに絵の神様とはこんな姿であろうと感動した」
と、記されています。
「容体は猿にそっくり」は、晩翠の祖父の誇張ではありません。古書『浪華人物誌』にも「此人平生起居飲食共如猿」と書かれており、猿画に生きた名人の日常生活がしのばれます。
狙仙は文政4年(1821)76歳の天寿を全うしています。西福寺(北区兎我野町)の墓地に彼の墓「森狙仙之墓」が残り、子孫の森忠雄「風雨破滅之為 原型ニ依リ再建 昭和三年十月」と、側に刻んでいます。
かつて西福寺の本堂の戸襖(とぶすま)には、狙仙の描いた「龍虎図」があり、その見事さには誰もが感嘆しました。この図を見るために参詣する人も多く「絵画仙境寺」とまで言われたのですが、惜しいことに昭和20年(1945)の空襲で、本堂もろとも焼失してしまいました。
狙仙の絵は彼が亡くなってからブームになり、高値がつきます。これに目をつけた画工寉山(かくざん)が狙仙を真似てたくさんの猿画を描き、偽造した狙仙の落款(らっかん)まで押して売りさばき、大儲けをしています。(続く)