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2014年2月19日森派の画家たち(二)

森徹山の娘お柳のむこ養子文平は、森一鳳(いっぽう)と名乗り、大坂画壇「森派」の後継者になります。
徹山は最初は養子の森寛斎に継がせるつもりでしたが、彼は長州藩士と組んで倒幕運動を起こしたので、周りから寛斎では幕府につぶされる、おだやかな一鳳のほうがいいと言われ、やむなく娘むこを選びました。
一鳳は寛政10年(1798)生まれ、幼いころから絵の才能があり徹山に入門、寛斎と甲乙つけがたいといわれた絵師です。人がらは謙虚で何事でも寛斎を先に立て、寺院や富豪から注文がくるとすべて寛斎に譲りました。
他の門人たちがそこまで兄弟子に尽くす必要はない、あなたが森派の指導者じゃないかと言い聞かせても、いや、力はとても及びませんと笑って横を向きました。

一鳳の藻刈図

森派は動物・花鳥・人物画が特色ですが、一鳳は山水も上手です。あるときさる大坂の商家の注文で、海辺で舟人が藻を刈っている図柄の絵を描きます。できばえもすばらしく、主人が床の間に掛けて毎日眺めていたところ、ふしぎなことに次々に商取引きが成功し、莫大な利潤を得ました。
たちまち評判になってこの図柄は「藻を刈る一鳳(もうかる一方)図」と呼ばれ、あちこちの商家から注文が殺到、鴻池や三井といった富豪も飾って自慢しあったといわれます。今でも古い商家には残っていますから、お持ちの読者もおられることでしょう。明治4年(1871)73歳没。徹山・一鳳の墓は、やはり西福寺(北区兎我野町)にあります。
森寛斎は文化11年(1814)萩(山口県)の毛利藩士石田伝内の子に生まれ、武士を嫌って大坂に来て苦労するうち、同情した徹山に認められ養子になります。
昔の知りあいに誘われて勤皇の志士のひとりとなり、国事に奔走しますが、幕府が倒れ明治政府が誕生すると、仲間は政府高官になって出世します。一本気の寛斎はその変身ぶりを嫌い森派に復帰したものの、気性が激しく世渡り下手、才能はあるのになかなか認められませんでした。
明治15年(1882)金毘羅(こんぴら)神社(香川県)の社宝円山応挙の襖絵(ふすまえ)の修復を見事にやりとげ、古希すぎた老画家の誕生だと大評判になります。人なみはずれた大柄に、髪もひげも伸び放題という異様な姿で、世間を超越して悠然と暮らしています。明治27年(1894)80歳没。(終わり)