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2014年2月19日浅井 薫(五)

大正3年(1914)4月1日から「宝塚パラダイス」で開催された日本初の少女歌劇「ドンブラコ」は、物知り顔のご隠居が、
「これは西洋のナニワ節じゃ」
と解説しただけあって、誰もがあいた口がふさがりませんでした。
この「ドンブラコ」で主役の桃太郎を務めたのが、14歳の少女浅井薫(芸名高峰妙子)です。彼女は箸が転げただけでもおかしがる笑い上戸。客席のオッチャンたちの野次にプウーッと吹きだし、何度も芝居が中断するありさまでしたが、宝塚歌劇男役の第一号です。

浅井薫(高峰妙子)

また「ドンブラコ」で鬼どもにさ われていたお姫さま役が、娘役第一号の雲井浪子です。彼女はのちに早稲田大学教授で有名な劇作家坪内逍遥の息子坪内士行の妻になります。今でも時々テレビ番組に顔を見せる女優坪内ミキ子の、お母さんです。
芝居が終わったあとの集合ダンス「胡蝶」が、宝塚歌劇の名物、フィナーレのラインダンスの始まりで「あでやかな衣装で舞い踊り、たわむれる蝶のようであった」と記されていますが、総勢16名ですから知れたものですね。

しかし少女歌劇はスムーズには広がりませんでした。演出家の安藤弘と社長小林一三が対立したからです。は少女だけのオペラは世界にも例がない、男子を入れろと主張。清く正しく美しくの一三とけんかになり、第3回公演の直前、は自分の作曲した楽譜を持ったまま雲隠れします。
それでも若いころ文学青年だった一三は屈せず、自作「紅葉狩」とさしかえて興行。大正7年(1918)までに19本の脚本を書き公演を続け、も感心して復帰したほどです。
とにかく一三の少女歌劇にかけた情熱は、すさまじいものでした。邦舞界の巨匠楳茂都(うめもと)陸平、画家岸田劉生(りゅうせい)の弟の岸田辰弥、ジャーナリストの久松一声、それに先記した坪内士行らに、脚本や演出・振り付けを頼み、能・狂言までとり入れて、本格的な、かつ日本独特の女性オペラに進化させていきます。
昭和2年(1927)本場パリで修業した岸田辰弥は、帰国後公演した「モンパリ」で、初めて大階段を用いたラインダンスを披露、大評判になりました。
は生涯宝塚歌劇ひとすじでした。彼女の工夫した男役の演技が、今もヅカの基本です。声楽講師としても多くのスターを育てます。(終わり)