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2014年2月5日織田 作之助 (二)

昭和6年(1931)天下の秀才の群がる第三高等学校に入学した織田作之助の面倒は、両親が死亡したため長姉のタツがみることになります。
「作ぼんはわてらとはちがう。ほんまに織田信長の血をひいてはる」
と、タツはひねくれ者の弟をかばい続けました。
彼女は竹中国治朗という商人に嫁いでいましたが、乏しい財布から5銭10銭と始末しては溜め、京都の下宿に入った弟に送金します。国治朗も経済的に苦しく、そこまで弟に尽くす義理はないと舌打ちして、
「あんな奴、あまり構うな。銭なかったら学校やめてさっさと働けばええ」
といい、夫婦げんかのタネになりました。
ところが姉の苦労も知らぬ顔の作之助は、文学に熱中します。詩人志望の同級生白崎礼三と社会見学と称して遊び回り、山本修二教授にアイルランド戯曲を学ぶや文芸部の雑誌に「岸田国士論」を発表し、ほめられていい気になります。

読売新聞より
(2002/10/9付)

さらに運の悪いことに胸を患い、学期考査中に喀血して落第すると、病気療養を口実に登校しなくなり、仲間と同人雑誌「海風」を創刊して1銭にもならぬ「モダンランプ」を発表、校友会雑誌に一幕物戯曲「落ちる」を掲載してもらい、これらを姉のタツに送って、
「小説家として世に出るのも近い。学費だけでなく、文学面の助力もお願いする」
とあつかましいおねだりを重ねます。
「下宿代かて20数円は要りまんね。水屋のひきだしにヘソクリかくしましたら、主人がまた盗人しとるんかと貼紙したことがおます。みんな主人の働いたお金やさかい、もうつろうて、つろうて…。三高から月謝のさいそくがきますと、泣く泣く帯や指輪を質屋にもっていきました」
タツは後にこんなことを書いています。
学校に行かなくなった作之助は、同9年、カフェで働いていた宮田一枝と知り合い、押しかけて同居します。あちこちの新聞社や雑誌から注文がジャンジャン来る作家になるつもりでしたが、現実はそうはいかない。おまけに一枝は夜働く女性です。一枝に対する異学な嫉妬心に苦しみはじめます。屈折した自尊心と病的な嫉妬心の交錯したジレンマが、織田文学の特色の一つだといわれますが、それはここから始まったのです。(続く)