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2014年2月19日浅井 薫(三)

13歳の少女浅井薫が見事合格した「宝塚少女歌劇養成会」を開いた箕面有馬電軌(阪急電車)社長小林一三は、この事業を成功させるため、あらゆる情熱を注ぎました。

まず指導者に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身で、オペラの作曲に天才的な才能を持っていた安藤弘と、妻で歌手の智恵子を招きます。智恵子も同校卒業生で、あの三浦環(たまき・ヨーロッパで蝶々夫人を演じ、国際的な評価を得る)と首席を争った声楽家です。宝塚歌劇の芸術的香りと高い品性にあふれたオペラは、この二人の指導が出発点です。

ドンブラコの台本

 

翌年の大正3年(1914)4月1日から5月30日まで、日本初の少女歌劇公演が行われます。場所は現在の宝塚大劇場のロビーあたりにあった室内プール場を改装したところで、「パラダイス劇場」と名づけられます。脱衣場が舞台になっており、間口7m。客席はプールに板を張ってござを敷いた程度。第1回公演と銘打ったものの、実はこの期間に開かれた「婚礼博覧会」のアトラクションでした。
演目は「ドンブラコ」「浮かれダルマ」それに集合ダンス「胡蝶」の3本立てです「ドンブラコ」はどなたもご存知の昔話桃太郎を西洋風のオペラに変えたもので、主役の桃太郎が演じることになります。
「お父ちゃん、ウチ、高峰妙子という芸名で、桃太郎やるねん」
娘にこう言われた父親の玉造署警察官浅井寛竜は、目を白黒させます。

実は毎日熱心にけいこを見にきていた一三が、
「桃太郎はあの子がいい」
と指名したのです。演出の安藤弘があわてて、あの子は歌はうまいが芝居は下手やと言うと、
「芝居なんかどうでもええ。無邪気でやさしく、おまけに礼儀正しい。まさにわしのモットー、清く正しく美しくの見本じゃ」
と、天の声を出したからです。

たしかに「見本」でした。第一、毎日梅田から宝塚まで無料のパスで電車に乗れるのが、楽しくてたまらない。歌と踊りは生まれつき大好きです。智恵子の指導はきびしく、泣きだす子もたくさんいましたが、父寛竜のしつけはもっとこわい。叱られるのはなれっこです。それに天性の澄んだ清らかな声も、大変チャーミングでした。
「ほ、ほんまに桃太郎やな。鬼退治の…」
と父寛竜は念を押します。(続く)