わいワイ がやガヤ 町コミ 「かわらばん」

みなトコ×みなとQ みなとQ編集室 06-6576-0505

2014年2月21日楯彦・八千代(一)

画家菅楯彦は、大阪市の名誉市民第1号です。大阪をこよなく愛し、大阪の風俗・人情を独特の画筆で描いた彼の功績は、その人柄とともに永遠に語り伝えられることでしょう。日本三大美女といわれる愛妻八千代も含めて、すばらしい夫婦の生涯をたどってみたいと思います。

楯彦・八千代

 

楯彦は明治11年(1878)鳥取の倉吉藩士菅大治郎の長男に生まれました。幼名藤太郎。父大治郎は画才があり、四条派の画家塩川文麟に師事し、盛南の画名をもったほどのプロ級の腕前でした。

明治維新で藩は解体され、武士たちは職を失いますが、大治郎は絵画で身を立てようと妻子をつれ大阪に移り、南堀江(西区)に居住、商家の注文に気軽に応じて生活費を得ます。ところが藤太郎が12歳のとき、突然卒中で倒れ、寝たきりになりました。やむなく藤太郎が代わって提灯やうちわ・ふすま絵などを描きますが、なんといってもまだ子ども、注文が激減します。母の必死の内職なんか療養費の一部にもならぬ。たちまち「赤貧洗うが如し」といった悲惨な貧困生活になり、そのどん底で父は死亡しました。
藤太郎は父から描画技法を習ったことは一度もない。「絵は心で描くものだ。幼いころはまず学問に専念せよ。さすれば心が育ってくる」、これが父の持論でした。

元来藤太郎は無類の負けず嫌いで勉学好き。家計が苦しいため誰にもつかず独学を重ね、16歳のとき「舜帝(しゅんてい)盲父孝養図」を描き、日本美術家協会展に応募したところ、入選でも難しいのになんと協会賞を受賞、1円50銭でお買い上げとなります。

「こんな大金、見たことない」

藤太郎は目を丸くして、そっくり母に差しだしました。は中国古代の名帝王で、「父はひいきした弟の象に帝位を譲ろうと舜の毒殺を企てたため、天罰で視力を失う。しかし帝王になった舜は、こんな父親にも孝養のかぎりを尽くした」との伝承があります。もちろん父大治郎とは大違いですが、他界した父への想いをこめて少年藤太郎が一所懸命に描いた絵は、審査員たちに感動をもたらしたと思います。
この話を聞いて感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(初代大阪市長)でした。博物場は当時大阪市唯一の博物・美術・図書・生物の綜合施設でした。太兵衛はいつでもうちにおいでと、ニコニコ顔で声をかけます。(続く)