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2014年2月21日楯彦・八千代(一)

画家菅楯彦は、大阪市の名誉市民第1号です。大阪をこよなく愛し、大阪の風俗・人情を独特の画筆で描いた彼の功績は、その人柄とともに永遠に語り伝えられることでしょう。日本三大美女といわれる愛妻八千代も含めて、すばらしい夫婦の生涯をたどってみたいと思います。

楯彦・八千代

 

楯彦は明治11年(1878)鳥取の倉吉藩士菅大治郎の長男に生まれました。幼名藤太郎。父大治郎は画才があり、四条派の画家塩川文麟に師事し、盛南の画名をもったほどのプロ級の腕前でした。

明治維新で藩は解体され、武士たちは職を失いますが、大治郎は絵画で身を立てようと妻子をつれ大阪に移り、南堀江(西区)に居住、商家の注文に気軽に応じて生活費を得ます。ところが藤太郎が12歳のとき、突然卒中で倒れ、寝たきりになりました。やむなく藤太郎が代わって提灯やうちわ・ふすま絵などを描きますが、なんといってもまだ子ども、注文が激減します。母の必死の内職なんか療養費の一部にもならぬ。たちまち「赤貧洗うが如し」といった悲惨な貧困生活になり、そのどん底で父は死亡しました。
藤太郎は父から描画技法を習ったことは一度もない。「絵は心で描くものだ。幼いころはまず学問に専念せよ。さすれば心が育ってくる」、これが父の持論でした。

元来藤太郎は無類の負けず嫌いで勉学好き。家計が苦しいため誰にもつかず独学を重ね、16歳のとき「舜帝(しゅんてい)盲父孝養図」を描き、日本美術家協会展に応募したところ、入選でも難しいのになんと協会賞を受賞、1円50銭でお買い上げとなります。

「こんな大金、見たことない」

藤太郎は目を丸くして、そっくり母に差しだしました。は中国古代の名帝王で、「父はひいきした弟の象に帝位を譲ろうと舜の毒殺を企てたため、天罰で視力を失う。しかし帝王になった舜は、こんな父親にも孝養のかぎりを尽くした」との伝承があります。もちろん父大治郎とは大違いですが、他界した父への想いをこめて少年藤太郎が一所懸命に描いた絵は、審査員たちに感動をもたらしたと思います。
この話を聞いて感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(初代大阪市長)でした。博物場は当時大阪市唯一の博物・美術・図書・生物の綜合施設でした。太兵衛はいつでもうちにおいでと、ニコニコ顔で声をかけます。(続く)

楯彦・八千代(二)

明治27年(1894)16歳の少年菅藤太郎は、プロでも入選の難しい日本美術家協会展に応募し、作品「盲父孝養図」で協会賞を受賞します。

父の早世のため貧乏のどん底で苦学し、独力で受賞した藤太郎に感心したのが、大阪博物場長の田村太兵衛(前大阪市初代市長)でした。
「いつでもおいで、好きなだけ勉強し」

と笑顔で誘い、入場料もタダにしてくれます。博物場は大阪唯一の美術・図書・生物・博物の綜合資料館です。藤太郎は昼も夜も入りびたり、気にいった古今東西の名画の模写を始め、さらに国文学・和歌俳諧・有識故実(ゆうそくこじつ 伝統儀式や風俗を研究する学問)なども、手当たり次第に勉学します。博物場には大勢の文化・知識人が出入りしており、こりゃたのもしい少年じゃと誰からもかわいがられ、めきめき実力をつけていきました。

現在 嵐山にある「富田屋」

明治35年菅楯彦と名を改めた彼は、陸軍幼年学校や女子実業学校から図画教師として招かれ、宇田川文海(大阪の作家)や渡辺霞亭(大衆小説家)らの新聞連載小説のさし絵も頼まれ、ようやく生活は安定します。
あの楯彦にしか描けない大和絵・浮世絵・文人画などを折衷(せっちゅう)したような独特の絵画は、よほどの知識や教養がなければ無理です。時代考証のしっかりしたさし絵は評判になりました。
とはいえ、まだまだ無名の楯彦が全国的に有名になったのは絵ではない。富田屋(とんだや)八千代との出会いです。
彼女の本名は遠藤ミキ(美記)、明治21年東大阪本庄の農家西田安次郎の4女に生まれました。10歳のとき宗右衛門町(大阪市中央区)の茶屋「加賀屋」を営む遠藤家の養女にやられ、3年後に南地(同区難波)の富田屋の座敷に出る芸者となり、美貌と利発、それに人柄のよさでめきめき売りだしました。
そのころ楯彦は富田屋主人に頼まれて、芸者衆に日本画を教えます。インテリや名士も接待する富田屋です。教養も大切だと茶華道・日舞・和歌俳句なども習わせ、とくに絵画と習字には力をいれた店でした。八千代の絵筆はずばぬけており、楯彦も目をかけます。
やがて八千代は富田屋の看板芸者となります。明治40年の「名妓評判記」という刷り物に、東京赤坂の万竜、京都祇園の千賀勇、大阪南地の八千代は、日本三名妓なりと記されているほどの超アイドルに、のぼりつめます。(続く)

楯彦・八千代(三)

日本三名妓のひとり、富田屋の看板芸者八千代の人気がどんなに高かったか、おもしろいエピソードを紹介します。

有名なマンガ家岡本一平(画家岡本太郎の実父)は、なんども横顔をスケッチさせてほしいと頼みこみ、やっと願いがかなったときのことを、次のように書いています。

「二重にくびれ居る二重瞼(ふたえまぶた)は微紅を帯び、あたかも春花の柔らかく、また温かく、睫毛(まつげ)にそうて香りかかり、乱れかかり、えも言へぬ美形…」

このとき一平は東京からかけつけ、約束の時間から5時間も待たされ、やっと面会できたもののたったの10数分間でした。一平だって超売れっ子です。それが待たされた恨みなど、ひとことも言ってない。ポカンと口をあけて、みとれていたことがよく分かります。

現在 嵐山にある「富田屋」

しかし八千代はどんなにチヤホヤされても、お高くとまることはありませんでした。松下電器の創業者松下幸之助が、まだ、高津の電燈会社(現関西電力)に勤めていたころ、富田屋から停電の修理を頼まれ、天井裏にもぐりこみほこりだらけになっていると八千代が通りかかり、まあ、お気の毒と声をかけ、茶菓子と祝儀袋をさしだします。

「自分は顔がまっかになり、お礼の言葉も言えなかった」

のちに幸之助はこんな思い出を語っています。

八千代は権力や金銭には媚(こ)びませんでした。宴会ではどんなに偉い政治家や大社長がいても、かならず末席にいる人の前に坐り、そこから順に上座に酌(しゃく)をして回ったと伝えます。
きっぷのよさも抜群でした。あるお茶屋で泥酔した大尽(だいじん 大金持ち)が入浴し、派手に湯水をとばしていたところ、廊下を歩いた八千代にかかり、八千代は思わず顔をしかめます。あやまるどころか大尽は、
「やい芸者、着物がそんなに惜しいのか。もっとええべべこさえてやるぞ」
といったとたん、
「いいえ、ちっとも惜しゅうはございません」
と、いきなり着物のまま大尽の湯舟にとびこみ、ぬれねずみになったまま平気で立ち去りました。
富田屋の下働きの人たちにもやさしく、新参の妹芸者を実の妹のようにかわいがり、どんなに金を積まれても身請け話には首を横にふりました。(続く)

楯彦・八千代(四)

いったい誰の嫁さんになるつもりや、と町雀たちのうわさの種になっていた富田屋八千代が選んだ相手は、富田屋の芸者衆に絵を教えにきていた菅楯彦でした。どんな玉の輿(こし)にも乗れた八千代は、無名の貧乏画家に嫁いだのです。

大正6年(1917)二人は周囲の猛反対を押しきって結婚します。ときに楯彦39歳、八千代29歳、ともに初婚です。結婚式は新郎・新婦の縁者が2人ずつ、仲人1人、夫婦を入れてもたったの7人だけ。披露宴もなく、酒食どころか歌ひとつでない簡素な神前挙式でした。

楯彦・八千代

「こいつがわしにほれて、女房にしてと押しかけてきよった」
楯彦はいつも自慢してこう語っています。本名の美記にもどった八千代の夫への献身ぶりは、涙ぐましいほどでした。とりわけ女手ひとつで楯彦を育てた母親は、武家の出身、評判のやかまし屋の昔気質(かたぎ)。芸者暮らしで身についた美記の立居振舞いから言葉づかいまで、ガミガミ言って直そうとします。楯彦の友人で作家の谷崎潤一郎は、
「美記さんは姑さんの前では、いつも手をついてものを言っておった。慣れない炊事・洗濯で、ひび、あかぎれだらけになりながら、孝養を尽くされた。どんな金持ちや偉いさんの奥様にもなれた彼女の姿に、目をおおう者も多かった。そのせいか楯彦は、美記さんが早世したあと、死ぬまで妻女は持たなかった」
と、のちに書いています。

楯彦が有名な画家になったのは、もちろん技量や教養、それにすばらしい人格者だったからですが、きっかけはこの結婚です。あの富田屋八千代が手鍋さげて押しかけた男は、どんな奴や…という好奇心からです。
楯彦の絵が売れ、経済的にゆとりがでると美記は書道を学び、ついで近藤尺夫に入門し『万葉集』『源氏物語』の講義を受けます。よほど利発な女性だったのでしょう。和歌・俳句も好み、楯彦に負けぬ詠草を残しています。
しかし美人薄命は世のならい。二人の結婚生活はたったの7年で終わりました。大正13年(1924)美記は急性腎炎のため、36歳で他界します。

生まれきて永き契(ちぎ)りと頼めども明日をも知らぬわが命かな  みき

と書かれた紙片が、ふとんの下から出てきたとき、楯彦は号泣しました。(続く)

楯彦・八千代(五)

「八千代(美記)の墓は四天王寺(天王寺区)にある」と、諸誌にでています。しかしあそこの墓地は広い。以前何度も探し回って、やっと無縁墓群の中でみつけた彼女の墓を、掲載しておきます。 文筆家中井浩水「明治の三名妓」に、次の文があります。

「八千代は目も鼻も大きく、声は低く、日本型の美女ではない。それがあれほどの評判になったのは、光村写真館が撮った絵ハガキのおかげだ。あれは国中に広がった。いや、そうではあるまい。あの気立てと聡明さだ。芸妓としてなすべきことはなし、なしてはならぬことは絶対にしない。だがあんなに気を使っていたら、長生きできるはずはないと思っておった。気の休まるときはなかったはずだ。くつろぎ楽しむゆとりがない。早世を知って、美女なんかに生まれるものではないと、しみじみ思った」

八千代の墓

文中にある光村写真館とあるのは、島之内(中央区)出身の写真家光村利藻(神戸の豪商光村弥兵衛の子)のことです。彼は乃木将軍とロシアの司令官ステッセルとの「水師営の会見」を撮影、また今に残る明治天皇の写真も彼の手になるもので、大阪の写真芸術家の先駆者です。その利藻がほれこんで頼みこみ、やっと八千代のブロマイドを撮っています。
この時代は絵ハガキブーム。菅夫人になった八千代も、全国の人たちと絵ハガキの交換を楽しんでいます。ある日、高橋しな子さんという人から、すばらしい西洋の風景画ハガキに麗筆で、あなたのお姿を分けてくださいと記した便りが届きました。2人は生涯文通を続けますが、八千代しな子が首相や大蔵大臣を務めた、有名な政治家高橋是清の妻だということを知らなかったそうです。
話をもどします。大正13年(1924)わずか7年の結婚生活で愛妻美記に先立たれた楯彦は、涙をぬぐったあと、猛烈な勢いで浪華を題材とする絵画の制作にとりかかります。
なにしろ国学から有職故実(伝統的な儀式や風俗を研究する学問)まで、学者も及ばぬ教養のある異色の画家です。誰もが真似のできぬ独特の艶(つや)のある大和絵風の歴史・風俗画が生まれていきました。まるで美記の霊がのり移ったようなありさまです。とりわけ秩父宮(ちちぶのみや)に献上した「友を千里に訪ふ図」と、大阪城の壁画「神武天皇盾津上陸図」は、誰からも絶賛されます。(続く)

2014年2月20日楯彦・八千代(六)

異色の画家菅楯彦が真価を発揮したのは、敗戦直後からでした。灰燼に帰した大都会の復興に、絵筆一本で挑んだのです。

アメリカ文明の旋風が吹き荒れるなか「浪速御民」と名乗った彼は、舞楽・文楽・祭礼などの大阪の伝統文化や神事を研究して描画、下火になっていた天神祭・住吉祭・生国魂祭等の復活に奔走します。とりわけ天王寺舞楽には情熱を注ぎ、雅亮会(天王寺舞楽を復活させた民間団体)に入会し、自ら石舞台にも立ちました。
「何べんも東京へ来いといわれたが、よう行かん。天王寺舞楽を捨てて移る気持ちには、
どないしてもならへん」
と語ったほどです。

四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」

円熟の境地に達した彼の絵は古今無双、淡くみやびやかな色彩、洒脱な趣向、そしてあのユーモラスな動きや表情は、戦後の疲労困憊(こんぱい)した大阪の人たちに、夢と生きる希望を与えました。

新聞連載で好評だった吉川英治「私本太平記」や、壇一雄「男戦女国」なども、楯彦の挿絵が人気を集めたからです。
「大阪に住み、大阪を愛し、大阪に尽くされた最高の長老」
との理由で、昭和37年(1962)最初の大阪市名誉市民に推されます。ほかに大阪府文芸賞、大阪市文化賞、また日本画家としては、これも初めての芸術院恩賜賞をうけています。日仏共同画展にも日本画壇を代表して出品しました。
昭和38年(1963)9月、85歳で没。その前年、楯彦昭和天皇・皇后の御前で、貧窮のどん底にいた幼少時代の苦労話をしますが、やさしい皇后さまは何度もハンケチで目頭を押さえられたと伝えます。
「恬淡(てんたん=あっさりしていること)無欲」と評された楯彦は、酔えば古式朗詠を美声で吟じ、庶民的でけっして威張らず、年老いてもスラリとした長身を崩しませんでした。
「四天王寺は空襲で大半が焼失、その再建は困難をきわめた。楯彦はまるで身内のように嘆いて悲しみ、
おびただしい絵を描いて売り歩き、復興資金に加えてくれと差し出した」
これは望月信成氏の言葉です。まさに浪速御民の面目躍如たるものがあります。
楯彦の墓は阿倍野墓地(阿倍野区阿倍野筋4丁目)にあります。また四天王寺境内に建つ「楯彦筆塚」も見事です。 (終わり)